みすず書房

「日本列島に最初に西欧人が足を踏み入れたのが、1543年だったとしよう。しかし、この年が日本人と西欧人が最初に出会った年であると言えるだろうか。朝鮮半島や中国大陸沿岸部を荒らした倭寇は、13世紀末から16世紀末まで活動したが、彼らの交通が実際にどのように行われていたかは、文書化された歴史からは消え去っている。1540年にはすでに中国大陸沿岸の小島で、ポルトガル人と日本人が一緒に住んでいた、などという記録を読むと、ほんとうに日本の庶民、とりわけ文字など知らなかった海の民にとって、海の彼方の異国は遠いものであったかどうか、わたしには疑わしい」。

「〈海彼〉という言葉がある。隣国をあらわす古い日本語だ。……この〈海彼〉には、海の遠い彼方というイメージがあるのはもちろんだが、同時に、海を通してすべては隣、という意識も込められていたのではないか」。

鑑真や遣唐使船の渡航ルート、元寇の侵略ルートをたどって、詩人が足を運んだその先は、鹿児島県坊津から長崎、平戸、鷹島、済州島、釜山、舟山群島、寧波、上海、そして揚州まで。本書は、これら日中韓三国沿岸の都市、港町、島々をへめぐるなかで、国境を越えた人々の交流の痕跡、「山川異域、風月同天」のありさまを探ったフィールドワークである。

はたして鑑真が漂着した島、倭寇が拠点とした島はどこか? 凧の文化はどこから伝来したか? 唐辛子はなぜ「唐」なのか?——旅の途上で見えてきたのは、クレオールな東シナ海、ハイブリッドな漢字文化圏だ。写真65点(全撮影・著者)、地図8点収録。

目次

序章 移動する眼

鑑真が到着した港——入唐道・坊津と秋目浦へ
鑑真が出発した港——中国・長江の岸辺へ
海の上の観音菩薩——中国・普陀山へ
風待ちの島、漂流のルート——中国・舟山群島から寧波へ
消えていった大凧
凧の文化とアジアの海と——長崎へ
唐辛子は、なぜ「唐」なのか——韓国・釜山へ
非時の香の木の実を求めて——韓国・済州島へ
元寇の舞台と捕鯨漁——鷹島と平戸へ

SHANGHAIする!
上海幻変・蟋蟀博打

あとがき
関連地図

著者からひとこと

「紀行文学」というジャンルが、もうそろそろ、日本に復活してもいいはずだと思っている。近代に入ってから、この国では、なぜ紀行文学が衰頽したのだろう。紀貫之の『土佐日記』や、芭蕉の『奥の細道』を持ち出すまでもなく、近代以前の日本には、実験精神の富んだ紀行文学の歴史があった。しかし、近代に入ってからは、優れた紀行文学としては、金子光晴の『マレー蘭印紀行』しか、わたしには思い浮かばない。

にもかかわらず、飛行機の機内誌や、新幹線の車内誌には、必ず旅のエッセイが載せられていて、世界各地のあるいは沿線の風景が写真とともに紹介されている。家に届く数多くのPR誌にも、旅の紹介記事がある。週刊誌の巻頭頁の多くも、旅のカラー写真だ。旅は衛生無害となり、旅の紹介文は人を慰藉するものとなった。

そんなはずはないだろう、とわたしは長く思ってきた。旅が衛生無害だって? 旅の紹介文は人を慰藉する? 驚きと不思議さがなければ旅とは呼ばないし、それを語るためには、言葉を選ぶ必要があり、文体が重要だ。

『アジア海道紀行』は、「東シナ海」をめぐる旅の記録である。中国ではこの海を「東海」と呼ぶ。地図を見ると、まるでアジアの地中海だ。わたしは単純に驚きから旅を始めた。風景は遺伝子のように、千数百年の歴史を残している。その不思議さがわたしに、歴史をくぐる海の旅をさせた。(2002年8月 佐々木幹郎)

編集者からひとこと

第54回読売文学賞受賞作
「長江から吐き出された大量の土砂が黒潮に乗って押し寄せるかのように、大陸の文化は日本にやってきた。その長く大きな流れを知ったとき、近代以降の狭い歴史観だけで隣国との関係を考えるべきではないと思いましたね」と語る佐々木幹郎氏(読売新聞2003年2月5日夕刊)。「誰もが成しえなかった海から見た紀行文学」(丸谷才一氏)との評を得、本書で読売文学賞(随筆・紀行賞部門)を受賞しました。ぜひご一読ください。