みすず書房

1996年7月のクローン羊ドリーの誕生から6年、2002年末には、ついに「クローン人間誕生」というニュースが流れた。事の真偽はともかく、いまやわれわれは、人類初のクローン人間を受け入れるか否かの選択を迫られているといっても過言ではない。

体細胞核移植によるクローン技術の成功が意味するものは、きわめて大きい。それによって、生殖細胞(精子と卵子)以外の、体の一部の細胞や冷凍保存された細胞からでも、もとの個体と同じDNAをもつ新しい個体を再生することが可能になったからである。クローン人間の是非を問うことは、人間や生命の本質を問うことにひとしい。こうした問題を考えるためには、技術、宗教、医療、法律などさまざまな論点が拠って立つ原理をあきらかにし、そこから判断の理由を明確に示さなくてはならない。

気鋭の哲学者/倫理学者である著者はまず、「クローン人間」というイメージが人びとに与える不安から説きおこし、遺伝子同一性と人格同一性を区別し、「人間の尊厳」の、歴史的、宗教的、哲学的に錯綜した意味を解きほぐす。そして、現代の生命倫理学(バイオエシックス)の二つの理論的支柱である、功利主義の原則と自己決定権の吟味をつうじて、クローン人間の賛成論と反対論が、ともにあわせもつ誤謬と危うさをあぶり出す。生命倫理の真価を問う問題作である。

著者からひとこと

今年の二月、クローン羊ドリーが死んだ。進行性の肺炎が原因で安楽死の処置が取られたという。通常の羊としては早すぎる、六歳半での死である。その本当の原因については今後の調査の結果待ちだが、クローン動物の遺伝子異常に関する調査報告もいくつか上がってきており、『ネイチャー』誌上でのドリー誕生の報告から六年を経て、現在のクローン技術がかなりの問題を含むものであることが、誰の目にも明らかになってきている。ドリーの誕生によって始まったクローン新時代は、その突然の死によって一つの区切りを迎えているように見える。

しかし、その一方で、クローン人間を作るという計画は、着々と進行している。昨年の暮に、世界初のクローン人間の誕生を発表したクローンエイド社は、その後も次々とクローン人間誕生のニュースを公表している。経過を見る限りでは、その信憑性にはかなりの疑問がある。しかし、クローン人間肯定派の代表者であるザボス教授も、最近、人間のクローン胚の作成に成功したという報告をしており、またドリーの生みの親であるウイルマット博士がヒト・クローン胚の研究に着手したというニュースも伝わってきている。

クローン技術そのものは、ES細胞を樹立する技術や遺伝子組換え技術と併せて利用されることで、人体への応用という面だけをとって考えても、難病の治療や理想的な臓器移植を可能にする画期的な技術になりうるものである。したがってまた、企業にとっては大きなドル箱にもなりうるものである。しかし、クローンは今のところ未来の技術であり、そうした実用化はまだまだ先の話である。今後、技術的に幾つかのブレイクスルーが発見されながら、次第に実現されてゆくべきものである。現在の未熟な技術を人間に応用しようとする「クローン人間」の企ては、あまりにも性急すぎる。

生物進化に関して、「走り出したら止まらない」ランナウエイ仮説というものがある。大脳が発達したことで人間が手にした「知」や「技術」という道具にも、そうした面がないとは言えない。いったん着手された塔の建設は、天に届く巨大なバベルの塔となって、自己破壊を遂げるまでは終わることがないのだろうか。(2003年4月 上村芳郎)

書評情報

医学部A to Z(代々木ゼミナール)
2014年夏