みすず書房

「本書はここ8年来の読書の記録であり、書斎の窓から見た世界の一部分である。……近代日本は先天的にある種の越境性を内に抱えているといえるかもしれない。そのような境界的な立場は、たえず外に対する好奇心を刺激し、また、自己像に対する過剰な関心を引き起こしている。そのような鋭敏な感受性は当然書物からも読み取ることができる。
その意味では、私にとって「アジアを読む」とは、日本を通してアジアを見ることであると同時に、日本という鏡に映し出されたアジア像を通して、日本社会の情緒を知ることでもある」
(「あとがき」より)

上海に生まれ、エクソフォニー(母語の外)を生きることを選び、それをみずからの思索の条件とした比較文学者が8年間にわたって新聞・雑誌に書き継いだ80篇の書評から浮かび上がる近代日本の宿命とアジアの現在。

著者からひとこと

最初に書評を書いたのは、いまから二十年前。その後、学会誌で書く程度で、書評の批評性をとくに意識したことはない。そのかわり、新聞や雑誌の書評欄をよく読んでいた。手っ取り早く情報がえられるし、分野によっては本を読まずにおおよその内容を知ることができる。
八年前に毎日新聞で書評する機会をえた。始めは不安もあったが、やってみると、思っていたよりも面白い。まず本を見る目が変わった。以前は専門書が中心であったが、書評をしてから一般書も視野に入るようになった。書評はいかにして批評たるものとなるか。この問題も意識するようになった。

どの本を取り上げるかは、恋愛と似ていて、必ずしも理屈というものはない。だから、自分がいいと思っても、人にも必ずしもそう思えるとは限らない。その辺りはどうしようもない。ただ、書評するとき、自分がなぜ惹かれたかは、出来る限り明確に説明するよう心がけている。

分野についても限定したことはない。とはいっても、人間の無意識は恐ろしいものだ。結果として、ある方面の本に関心を持っていることが、どうやらあるらしい。

昨年の秋、これまで新聞で書いた書評をみすず書房の安島真一さんに見せると、「ほとんどがアジアについてだね」と言われてはっと気付いた。それが今回上梓した『アジアを読む』である。書林を漫歩する楽しさを記録したものだが、この八年間、書物を通して何を見てきたか、また何が見えてきたか、そのことを読んでいただければありがたい。(2006年2月 張 競)