みすず書房

社会学、言語学、思想、それぞれの先行研究を通して、日本の社会・言語・文化に潜在するレトリカルな認知構造を析出し、日本の文化と社会を論ずる。
グローバル化の煽りを受け、〈日本的〉なるものは変質を余儀なくされてきたと言われている。ここでは、その〈日本的〉といわれることの実質について、理論的、方法論的に一貫した分析枠組みを提供する。日本社会の変革可能性を展望するために、認識の整理を試みた。

本書は、こうした統一的「枠組み」として、日本語、日本文化、日本社会(像)に潜在するレトリカルな「認知構造」(=「日本のコード」)の析出を試みたものである。詳細は第二章で展開されているが、メトニミー的認知構造は、メタファー的認知構造に比べて、より原初的、基層的なものであり、しかも、そうした構造が古代以来ほぼ純粋に継承され、「日本的」なる上部構造としての日本的発想や文化、社会観を育んできたと考えられる。それを可能にしたのは、独自の地政学的条件によるところが大きいだろう。また、こうした日本語の構造の基底に位置する認知構造の所在は、丸山眞男の思想的「古層」と、フーコーのいう出来事としての「言表」との間のどこかに位置するものである。「日本のコード」を巡る現実的諸条件群や方法論的に精緻な考察は残された課題である。にもかかわらず、すでに述べた「日本的」なるものを巡る緊急事態に呼応すべく、析出されたコードの提示を本書の課題とした。(「はじめに」より)

目次

I 日本語のコード
第一章 日本語の身体
第二章 日本語のコード

II 日本文化のコード
第三章 日本的発想と主体性
第四章 私小説のコード
第五章 造形のコード

III 日本社会のコード
第六章 「世間」のコード
第七章 家族国家のコード
第八章 家族国家のメトニミー的膨張

あとがき

文献一覧

著者からひとこと

本書は、前著『ヒト・社会のインターフェース』(法政大学出版局、2005年4月)のいわば応用編として、日本の社会文化を対象として分析を試みたものである。前著の段階では認知言語学や認知意味論の詳細についてはフォローしきれていなかったので、前著刊行後、そうしたレトリカルな認知構造を基底とした社会文化的な上部構造の理解を具体化する可能性に注目して、一連の日本の社会文化分析を試みてきた。
その成果として本書では、社会学、言語学、思想、それぞれの先行研究をふまえて、日本の社会・言語・文化に潜在する構造を析出し、日本の文化と社会を論ずる礎を築いてみた。日本語、日本文化、日本社会、各々のコードを析出し、日本社会の変革を展望するための、認識の整理に努めた。

たとえば、「第六章「世間」のコード」。前章までに、日本語、日本文学、形象文化など、日本文化の諸相に潜在する一連のメトニミー性に注目した分析を試みた。しかし、レトリックがたんなる認知の方策であるだけではなく、そのことを通して、人々の社会的実践をも方向づけるものであるとしたら、それは日本社会のあり方をも規定することが予想される。日本固有の社会のあり方として、「世間」に多くの関心が払われてきたが、この「社会」と「世間」の両概念をめぐっては、今日にいたるまで錯綜がみられる。そこで、この混乱を整理したうえで、「世間」に潜在するメトニミー性の解析を試みた。
さらに、続く章では、家族国家のコードを探究した。明治末年以降、戦中にいたる日本固有の「社会イメージ」としての「家族国家」観を支えた思惟構造はメトニミー的認知図式であった。そこで、この認知図式の特質を「家族国家」観の主要な特徴と関連づけることを通して、その点の検証を企てた。もとより、家族国家観に関する幾多の研究の蓄積を前提とした試みではあるが、そうした論議から提示されてきた主要な指摘や特徴、発想などをより整合的に一貫して説明可能にする枠組みこそ「メトニミー」的な認知図式であることを示した。

一貫して、日本社会の現状分析のための原理論構築に腐心した。読者の方々各自の問題意識に沿って、なにがしかの役に立てば幸いである。