みすず書房

「人としての倫理的規範を逸脱してはいないか」という思いや道徳的感情について、恥の感覚を鍵とし、政治・社会的行動から日常行動までを素材に分析する。
「正義」や「倫理」をどのようなものとして構想し、それをいかに実現に結びつけるのか。アガンベン、アーレント、シオラン、フランクル、レーヴィ、ルジャンドル、コノリー、辺見庸、服部文祥ら、様々な思想に論及し、言語政治学の知見を援用しつつ、困難な問いを考究する。

人が大切にされていると実感できる社会を再構築するためには、恥の感情としての「廉恥心」を復権する必要があるのではないか。
第一章では、「みっともなさ」の基準と同義になった羞恥心とは異なる「廉恥」の感情とはなにか、また一般的な罪の意識と恥の感覚との関係について考える。
第二章では、恥の感覚の物語的な構造について考察したうえで、諧調維持を最優先する日本社会における「日本的恥」と、「もののあわれ」に代表される「かなしい」という感情へのナルシシズム的逃避の問題点について論ずる。
第三章では、恥の感覚は、「話すこと」の恥ずかしさと同じ構造を有することが解かれる。さらに、乱調を嫌う姿勢が息苦しさを生んでいく状況と羞恥心の肥大化の関係が検証される。
第四章では、廉恥心復権のために考えるべき点として、徹底した個の闘いとしての「騙る」ことの意義、羞恥心肥大化による「言葉」のもつ涜神的潜勢力の衰退、たんなる「勝手な期待」に成り下がった「信頼」観の変容が考察される。

目次

はじめに——いまなぜ〈恥ずかしさ〉なのか

第一章 〈恥ずかしさ〉のいま
「いまここに在ることの恥」
宗教者であることの恥
「罪」と「恥」
〈宿罪〉と一般的「罪」

第二章 恥感覚の起動原理
人格の物語的構造
乱調を罪とする日本的「恥」
「引き受けることのできないもののもとに引き渡されること」
「恥ずかしさ」と差別意識
「恥ずかしい」と「かなしい」

第三章 「話すこと」の負い目
「話すこと」を止めることができない存在としての人間
羞恥心の肥大化
偽名の〈私〉
自殺の不可能性

第四章 〈恥ずかしさ〉の復権
〈語る=騙(かた)る〉と〈黙る=騙(だま)る〉
言語活動の涜神性
「壁」と向き合う物語的自己
「信頼」観の変容
「言葉」への信頼

おわりに——「暴力こそが唯一の答え」に向き合う

あとがきにかえて
参照文献

著者からひとこと

「(こんな内容のものを)出してよかったんだろうか」。いよいよ自著が配本されようというときに抱く思いは、いつもこれだ。何を偉そうにこんなことが言えるのか、自分を棚に上げてしまっていなかったか、そもそも自分にはこんなことを書く資格があったと言えるか等々。後悔と不安ばかりが脳裏を過(よぎ)ってやまないのだ。ましてや、本書のあとがきは、この度の大震災の衝撃覚めやらぬ時期に記さねばならなかった。自らが発することばということばが空疎に響く状況で、いったい何を書けるというのか。書けば書くほど恥ずかしい己を意識せざるをえないのだ。

事情があって新幹線による遠距離通勤をはじめて、かれこれ10年が過ぎようとしている。だが、それを可能にしたのは、めったに運行スケジュールが狂うことのない新幹線を走らせる、原子力発電所が生み出す電気のおかげであったのも事実なのだ。その恩恵に浴すことに大した疑問を呈することなく生きてきた人間に、いまさら何が言えるというのか。すべては言い訳にしかならない。まさに恥の上塗りでしかないのだ。しかも現在、フクシマダイイチで「決死隊」として働かざるをえない「協力会社」に雇われる人たちに、すべてを「丸投げ」し、自らは今までと同じ生活を送ることのできる「特権」を享受する私。福島で乗り換えの新幹線を待つホームでは、「お弁当はいかがっすかぁ」と、弁当を売る販売員のわきで、福島の空気中の放射線量がけっこう高いことを知っていて、できるだけはやく新幹線に乗り込みたいと願っている私がいる。その程度の不安を感じることさえ、「特権」になっている状況。そして、それを可能にしているものの正体こそ、恥の意識を抑圧し続け、醜き己が内面を封印せんとする破廉恥な態度に他ならない。

3月11日、東京電力の勝俣会長が訪中団を率いて北京にいたことは当初から報道されていたが、じつはその団員は大手マスコミのOBたちであったという。トップの不在が、(高価な原子炉を台無しにする)海水注入の判断を遅らせた原因ではないかとも疑われているなかで、名の知られた編集者なども含むこの東電の接待に応じた26名の面々は、いまどんな思いでフクシマをみているのだろうか。

筆者自身が恥ずかしい存在であることの自意識を隠蔽抑圧して尚、恥について書きたいという衝動のなすがままに本書を出版してしまったのは、こうした他者の破廉恥なふるまいに腹が立つからにすぎないのかもしれない。しかしこれもまた、ただの言い訳にすぎない。ただひとつ言えそうなのは、危機に際しても「秩序を乱さぬ日本人」として賞賛されることよりも、品が無いと言われても尚、怒りという私的感情に忠実に生きるほうが自分の性に合っているということなのだろう。だがしかし、こう言っても尚、己が恥ずかしさはいっこうに消えることはないのであるが……。

(2011年4月30日 菊池久一 記)

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