みすず書房

〈われわれは所与の世界に投げ込まれ、生を紡ぐ。近代社会に生きるわれわれの認識は、物象化によって染め上げられている。そのなかで個々の主体は、いかにして物象化された意識を取り払い、内在する立場から社会を揺り動かすことができるのだろうか。廣松渉は、生涯にわたる哲学的思索をつうじてこの問いを探求しつづけたといってよい。それゆえ、われわれは廣松哲学を貫くモチーフとして「内在的超越」ということばを充てたいと思う〉

1960年代における学生運動の高まりとともに新左翼運動の理論家として一躍脚光を浴び、その後アカデミズムの中枢でひとつの時代を築いた廣松渉(1933-1994)。異様な漢語を多用した重厚な文体をもち、ドイツ観念論哲学、現象学、マルクス研究など広汎な学問領域を博捜しながら、独自の哲学体系を構築していったこの哲学者は、いったい何を目指したのか。物象化論、共同主観性、四肢構造など廣松渉が生み出した数々の概念は、どのような現実との対峙から生まれてきたのだろうか。
『日本の学生運動——その理論と歴史』(1956)から『存在と意味 第2巻』(1993)以後まで、テクスト読解を軸に、廣松の人と思想と時代と影響関係の全体を思想史上に位置づけ、その思考過程を精密に追った、若き研究者の力作。

目次



第一章 戦後日本の学生運動における廣松渉
一 学生運動の活動家としての出発
二 『日本の学生運動——その理論と歴史』執筆
三 新左翼運動の理論家へ
四 前衛と大衆
おわりに

第二章 廣松渉の革命主体論——物象化論への途
一 戦後主体性論争と全共闘運動
二 「疎外革命論批判——序説」寄稿とその背景
三 『ドイツ・イデオロギー』における人間観
四 疎外論から物象化論へ
五 物象化された革命主体
六 自己変革と社会変革
おわりに

第三章 物象化論と役割理論——廣松渉の思想形成における『資本論の哲学』
はじめに
一 物象化とは何か
二 戦後日本のマルクス研究と『資本論の哲学』執筆まで
三 マルクス『資本論』の冒頭商品
四 二つの価値と共通の第三者としての抽象的人間労働
五 価値形態論の四肢的構造
六 物象化論と観念的扮技による役割理論

第四章 廣松哲学はいかに言語的であるか——「認識論的主観に関する一論攷」の射程
一 「認識論的主観に関する一論攷」
二 言語論
三 判断論
四 構造主義との対質から表情論、役割行動論へ

第五章 役割存在としての主体性論——『世界の共同主観的存在構造』と『役割存在論』
一 廣松役割理論の意義
二 G・H・ミードの自我論
  二—一 ミード自我論の出発点  二—二 一般化された他者  二—三 客我と主我  二—四 共同体と個人
三 役割行動とは何か
  三—一 表情性現相  三—二 期待察知と役割行動
四 集団内での役割行動と役柄の物象化
  四—一 賞罰(サンクション)  四—二 集団への所属  四—三 役柄の物象化
五 自己同一性と自由意志
  五—一 自己同一性と人格的実体  五—二 自由意志

第六章 役割理論からマルクス主義国家論へ
一 国家論の難題と役割理論への定位
二 国家=機関説(スタトゥス)と国家=統体説(キヴィタス)から唯物史観へ
三 マルクス国家論追考
四 唯物史観における〈生産〉
五 社会的権力、国家権力、役割

第七章 廣松渉の「近代の超克」論——高松岩男『世界史の哲学』、三木清の「東亜協同体論」と比較して
一 廣松渉の「東北アジア論」
二 京都学派の〈近代の超克〉論
三 高山岩男の『世界史の哲学』
四 三木清の「東亜協同体論」
五 『〈近代の超克〉論』から『存在と意味』へ

第八章 生態史観と唯物史観——廣松渉の歴史観
一 梅棹生態史観のインパクト
二 梅棹生態史観
三 マルクス史観の単系発展説と多系発展説
四 「表象的環境」への実践的投企
五 廣松渉の歴史観

第九章 ソ連・東欧崩壊後におけるマルクス共産主義・社会主義の再解釈
一 冷戦構造の崩壊と廣松渉のマルクス論
二 マルクス共産主義・社会主義論の再解釈
三 近代的市民社会像イデオロギーの暴露
四 国家社会主義への視角
五 過渡期としてのプロレタリア独裁
六 永続革命、世界革命へ

第十章 『存在と意味』における内在的超越
一 所与と四肢的構造連関の動態的構造
二 超文法的判断と「異-化」
三 価値論と企投する主体
四 共同体的価値規範と構造変動のモメントとしての正義論


文献
あとがき
人名索引/廣松渉著作名索引/廣松渉論文名索引

書評情報

小林昌人(マルクス研究者)
読書人2018年6月1日