みすず書房

松村洋『日本鉄道歌謡史』全2巻

1 鉄道開業~第二次世界大戦/2 戦後復興~東日本大震災

2015.08.10

歌謡曲、ポップス、唱歌……鉄道が出てくる流行歌から読み解く日本近現代史です。歌と鉄道を入り口に、日本と日本人の150年を庶民の視点で語ります。第1巻は明治維新から太平洋戦争への流れ、第2巻は大震災を体験した戦後70年をたどり、日本が西洋的近代化路線を選んだことで、私たちが何を手に入れ、何を失ったのかを考えます。
各節で取り上げた歌から、明治、大正、昭和、平成をたどりなおす試み。

それでも鉄道は24時間制、分単位で運行される。鉄道は、24時間制の観念、分単位の時間感覚、そして国内共通の時間システムを社会に要求した。人びとは、そうした鉄道の時間に合わせて行動しなければならなくなった。鉄道は人びとの時刻観念、時間感覚を近代化していった。ただ速く走るということを主観的に感じるというだけでなく、二地点間を何分間で結ぶという客観的な数字で速度を理解する。伸び縮みしない時間単位で速さが測られ、比較される。そうした時間観念が共有されることによって、さまざまな比較とさらなる効率の追求が可能になる。

第1巻 第I章 第2節 開化気楽謡……1873(明治6)年頃

鉄道は危険と隣り合わせである。だから規則を作り、全員がそれぞれの持ち場で規則を遵守することで安全を確保する。したがって鉄道員は、真面目な機械人であることを要求されるという面は否定できない。……では、鉄道員は、組織の中で職務命令にひたすら忠実な機械人だから虚しいか。そうではなく、むしろ定められたとおりに全員が職務を全うし得たとき、そこに鉄道員の誇りもまた生まれたのではないだろうか。

第1巻 第II章 第12節 あゝ踏切番(詞/曲・添田啞蟬坊)……1918(大正7)年

傑作なのは佐藤春夫の「“小田急”などといふに至っては、こんな言葉を口から出す人間とは交際する気にもなれぬ」(1929年10月13日付『読売新聞』)という素っ頓狂な意見だ。小田原急行鉄道を小田急と略すのは品のない言い方だったのか? この会社、現在の社名は小田急電鉄株式会社である。小田原急行は小田急。今では当たり前のこの感覚を当たり前と思わない人が生きていた時代の空気を想像するのはなかなか難しい。しかし「いっそ小田急で逃げましょか」という歌詞のリズム感、歌詞に内在するスウィング感が、旧世代の保守的インテリ層には品位を欠くように感じられた。やはり、この歌は、この時代の新しい感性を見事に表現していたと言えそうである。
こうして流行歌が論争の対象になった。それは新しい消費文化のなかに組み込まれた大衆歌謡が、大きな社会的影響力を持つようになっていたことを意味していた。

第1巻 第III章 第19節 東京行進曲(詞・西条八十/曲・中山晋平/歌・佐藤千夜子)……1929(昭和4)年

くじけちゃならない人生なのに、資本主義の競争では、ほとんど全員が負ける。くじける者の方が圧倒的に多い。「ああ上野駅」は、その苛酷な現実を歌わなかった。その分、嘘っぽく、経営者に都合の良い歌だったとも言えるだろう。だが、この歌は、自分がどこから来たのか思い出そう、と歌っている。自分が何のためにここに来たのか思い出そう、と歌っている。つまり、この歌の最も重要なメッセージは“自分を大切にしなさい”ということだったように聞こえる。この歌が大ヒットしたのは、そういうメッセージが都会に出て来た若者たちの心をとらえたからではないだろうか。
自分を確認する場が上野駅だった。くじけそうになったら上野駅に来い。自分を見失いそうになったら上野駅に来い。上野駅は大切なことを思い出させてくれる。駅には、そんな力もあったのだ。

第2巻 第VI章 第35節 ああ上野駅(詞・関口義明/曲・荒井英一/歌・井沢八郎)……1964(昭和39)年

何かを捨てた後で、捨て去られたものを「すばらしかった」と賞賛し、観光産業やマスメディアのなかで消費していく。それはその後、沖縄文化そのものに起こったことでもあった。“復帰”後の沖縄では、社会・文化のヤマト化が急速に進み、それまであった沖縄地域文化が崩れていった。その崩壊が決定的になった1990年代に、ヤマトでは沖縄音楽ブームが起こった。当時、沖縄には伝統的な歌文化がまだ残ってはいたものの、沖縄の若者たちの多くはそれらに関心を示さず、圧倒的にJポップの方を向いていた。そこまで文化を壊しておいて、あるいは文化が壊れたからこそ、沖縄文化を賞賛し“すばらしい沖縄”を消費していく。そのやり方は、蒸気機関車を捨てた後で賞賛するのと同じだった。
私には蒸気機関車をノスタルジックに美しく追想する気はまったくない。蒸気機関車を懐かしむよりも、それを懐かしむ対象にしてしまった効率の思想について考えたい。蒸気機関車をさっさとノスタルジーの世界へと追いやってしまった価値観について考えたい。実際のところ、蒸気機関車の引退はやむを得ないことであったかもしれない。だが、それでもガラガラと走る黒い車輪が鉄路の上でひび割れていくことを見届ける“やさしさ”について考えたい。
効率で舗装され、ノスタルジーで飾られた道以外に、私たちの行く道はないのだろうか。

第2巻 第VII章 第45節 公園のD51(詞/曲/歌・友部正人)……1973(昭和48)年

その日、私が参加したデモの一隊が渋谷の西武百貨店横にさしかかると、前方のサウンドカーから、小気味よい女性のコールが聞こえてきた。柔らかさのなかに強い芯のある声が軽やかに弾み、ビルの壁に谺している。その声の主が、レゲエ・シンガー、リクルマイだった。
じつはこの日が、彼女のデモ・デビューだったという。その後、リクルマイは多くの反原発市民集会やデモに積極的に参加するようになった。彼女は地震と津波で大きな被害を受けた岩手県宮古市の出身だったから、大震災にはとりわけ大きなショックを受けた。さらにその被害を取り返しのつかないほど大きくしたのが原発事故だった。原発の利権に群がり「事故は絶対起こらない」と人びとを騙し続けてきた原子力ムラへの強烈な怒りが噴出した。地震の翌年にリリースされた彼女のアルバム『ダブ イズ ザ ユニヴァース』には、当然のように反原発のメッセージを込めた曲が収録されていた。
そのアルバムの一曲「さよならバビロン」に電車が登場する。穏やかな表情のレゲエ・ナンバーを、リクルマイはエレガントに歌っている。だが、ここには決然たる意志が表明されている。

第2巻 第IX章 さよならバビロン(詞/曲/歌・リクルマイ)……2012(平成24)年