2018.04.12
なぜ戦い、なぜ死ぬ。『兵士というもの』 画期的史料を歴史学と心理学で分析
ナイツェル/ヴェルツァー『兵士というもの――ドイツ兵捕虜盗聴記録に見る戦争の心理』小野寺拓也訳
[第6回配本・全11巻]
2018.04.10
中井久夫は戦時中、“札つき”のいじめられっ子だった。その原体験をふまえつつ、いじめの被害者の心理と集団力動について考察したのが、『中井久夫集6』の表題にもなった「いじめの政治学」である。初出は、1997年3月に弘文堂から刊行された『講座 差別の社会学』第四巻「共生の方へ」で、同じ年に中井の随筆集『アリアドネからの糸』(みすず書房)にも収録された。
『講座 差別の社会学』は、性や障害、病気や国籍などを理由に行われる差別といじめの実態をふまえ、その構造を読み解き、救済と癒やしを目指すことをテーマに編まれた四巻シリーズである。水俣病や釜ヶ崎の調査と支援活動で知られる政治社会学者の栗原彬が編者を務め、中井に執筆を頼んだ。〔…〕
中井がここで解明しようとしたのは、いじめがなぜ被害者が抜けられないワナのような構造を持ち、なぜ外部からは見えない透明性を帯びるのかについてだった。いじめが人間の奴隷化であり、被害者は「孤立化」「無力化」「透明化」という三つのプロセスを経て追い詰められていく、と分析したいじめの三段階論は、統合失調症の寛解過程論がそうであったように、つかみどころのない対象に目鼻をつけたいと願う精神科医としての深い洞察眼と被害者への共感がにじみ出ており、発表後、とくに少年事件を扱う教育関係者や法曹関係者によく読まれた。
〔…〕
本巻に通底するテーマは、記憶である。当時の中井は、PTSDを診断する際の症状項目である侵入症候群、すなわち、トラウマとなった出来事の記憶が意に反してよみがえったり、悪夢として反復されたりする症状がそもそも何であるのかという疑問を解き明かそうとしていた。たどり着いた一つの仮説が「記憶について」と「詩を訳すまで」に記されている。
中井はまず、記憶をフラッシュバック記憶(f記憶)とパーソナル記憶(p記憶)に分けた。f記憶は「元来は病的なものでなく、「古型の記憶」すなわち二歳半以前の記憶と基本的に同じ」(「詩を訳すまで」)おそらく人以前に遡る記憶で、「狩猟時代以前、人間がもっぱら狩られる存在であった時には有用性を持っていたであろう」(「記憶について」)。f記憶があるからこそ、再び同じ危険に遭遇する危険を回避でき、「過去にあってはこういう記銘力を持った者の生存率はそうでない者に比し高かったであろう」(同前)。
一方、p記憶は二歳半から三歳にかけて起こる“言語爆発”によって成人文法性が成立してから始まる「新型の記憶」(同前)であり、これによって人は記憶と人格の連続性を保てるようになる。成人文法性が成立する前のf記憶は、「黒板を拭き清めるようにわれわれの意識から遠ざけられ「メタ私」の一番奥にしまわれる」が、「いざという時にはまた働きはじめる。つまり危機用の記憶なのである」(同前)。意図せずして症状が現れるのは、それが生存に関わる記憶のパンドラの箱を開けるほどの衝撃だったためである。
統合失調症はなぜ存在するかについて徹底的に考え抜いた『分裂病と人類』(東京大学出版会)を想起する読者は多いだろう。中井はここで、統合失調症になりやすい人をS親和者と呼び、彼らの微細な兆候を読む能力が狩猟時代には生存戦略として有用だったが、農耕社会の到来で有用性が下がり、狂気とみなされ、近代化と共に病や障害として分類管理されるようになったと説いた。人間にとって必要不可欠な機能の失調が、現代では精神疾患と呼ばれるものであり、誰でも病になり得るのであって、たまたまなんらかの幸運によって免れているだけだという中井の人間観は、PTSDの考察においてもぶれることはなかった。〔…〕
(copyright Saisho Hazuki 2018)
2018.04.12
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