みすず書房

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高杉一郎『あたたかい人』

太田哲男編

高杉一郎(1908-2008)は、その晩年にふたつの主著ともいえる作品を刊行する。『スターリン体験』『征きて還りし兵の記憶』である。ときに高杉、82歳と87歳。これらの文業に高杉を駆り立てたのは一体なんであったのか。『スターリン体験』のなかで高杉は書いている。

「私たちは関東軍という巨大な機構が崩壊する際の、轟音や周章狼狽や怒号や絶望や上官抵抗のすべてをこの眼で目撃した。それは、すさまじいというよりほかはない混乱であった。最近、チャウシェスク政権の崩壊をつたえるテレビを見ているとき、私の肉体にはとつぜんあのときの興奮と感覚がよみがえってきた」

高杉のなかでは、戦前の軍国主義の象徴ともいえる関東軍の瓦解と、社会主義を標榜する独裁体制の崩壊が、肉体的に結びついたのだった。その人生は、「全体主義の世紀」をいやおうがない実感とともに生き抜いた100年であったといえるだろう。

高杉が生まれたのは1908年、その翌々年には大逆事件が発生し、日韓併合が行われる。そして33年、25歳のときに改造社に入社。ドイツではナチスが政権を握り、国内では小林多喜二の虐殺事件、滝川事件が起こる。軍靴の響きが高まるなか、同社の『文藝』誌上で「日中文学者往復書簡」を企画したのが37年。中国では盧溝橋事件とともに日中戦争が本格化し、ソヴィエトではスターリンによる大粛清が進行中であった。44年に改造社が「解散」に追い込まれるとともに召集、関東軍に配属され、敗戦後はまる4年にわたってシベリアに抑留される。
1949年に復員した日本は、すでに戦後の民主化の空気が薄れ、逆コースへと舵を切りつつあった。その翌年、シベリア抑留体験を描いた『極光のかげに』がベストセラーとなる。朝鮮戦争勃発直後のことである。

「私が努力したのは、できるだけ正直に書くことと、すべてのものが政治的な時代であるにしても、望むらくは、せまい党派的なものにかたづけてしまうことができないものの意味をできるだけあきらかにすること、であった」というこの著作は、左右両翼からの批判にさらされる。しかしこの政治性に回収されまいとする態度こそ、高杉の戦後の執筆活動を花開かせたものだった。

盲目の詩人ワシーリー・エロシェンコ全集の編集、中国で抗日放送に携わった反戦活動家、長谷川テルの伝記の執筆、魯迅へもつながる中国文学者との様々な交友、フィリッパ・ピアスをはじめとする多数の児童文学の翻訳……。

不毛さを冷徹に見つめ、普遍的な人間性に寄りそいつづけた高杉の遺文の数々を、20世紀を見なおす際のひとつの出発点としていただけたらと思います。

 



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