みすず書房

トピックス

渡邊一民『武田泰淳と竹内好』

近代日本にとっての中国

コペンハーゲン、1969年7月4日。「昼食は、竹内さんが昨日入ってみたという中華料理店『竹園』に行く。出てきた店主が中国語で挨拶すると、竹内さんが中国語で注文した。店主と中国語で会話する二人は浮き浮きとして見えた。店主は嬉しそうでもなく、ごく当り前の顔つきをしていた」
大人のための「銀河鉄道の夜」ともいうべき武田百合子『犬が星見た』(中公文庫)の一節である。ナホトカ、いや横浜港から始まった気ままな旅も終盤間近のごく何気ない文章だけれど、ここに描かれた晩年の武田泰淳と竹内好の姿はじつに幸福感に満ちあふれている。子供じみた虚勢を張りあい、旅の途中で別れた老人のまねをしあったり、ポルノ雑誌を仲よく物色したり、友人丸山眞男の心配をしてみたりしたあと、予想外の場所で遭遇した「中国」。日常を「途中下車」しているがゆえに、それは夢のように、おとぎ話のように長旅を締めくくる恩寵として訪れる。

たとえば『風媒花』刊行時の1952年、武田泰淳はこんなふうに書き記していた。「中国問題は、二十年来、私の頭に引っかかっていた。この問題は、はじめは中国の自然や芸術に対する淡いあこがれの形であらわれたが、中日戦争の開始と共に、夢魔のごとくこびりついて離れなくなった。日本の学者や政治家がこの問題に対決して悩み苦しむ姿もながめて来た。一兵士として大陸の戦争に出向いたりすれば、いくら考えの浅い私でも、この問題が外界の一時的な現象ではなくて、自己の内心にかかわりを持つ、底知れぬ深淵であることを感ぜずにはいられなかった」(『身心快楽』講談社文芸文庫)
むろん、それは魯迅の作品に理想型としての抵抗の精神、主体化のプロセスを読みとる竹内好にとっても同様の事態だった。「深淵」より浮かびあがるのは、近代化の過程で日本が逃れようとしたアジア、ひるがえって帝国主義的侵略の対象としたアジアである。さらには「死者のまなざし」でみつめかえしてくるアジア、日本に先駆けて共産主義革命を成就したアジア……。

本書がたどるのは、生涯にわたって「他者」としての中国を「自己の内心にかかわりを持つ、底知れぬ深淵」として問い、そこからたえずみずからの思想と作品の深度を測りつづけたふたりの軌跡である。そしてこの軌跡への旅路の終わりには、ひとつの結晶体さながら戦前・戦後を通じて昭和の日本で貫かれた強靭かつ希有なエチカが読者に示されることになるだろう。
「この『武田泰淳と竹内好』の刊行によって、わたしが二十年来構想してきた近代日本にとっての〈他者〉をめぐる精神史は、いちおう完結したと言っていいだろう。過去があまりにも早く忘れられていく日本の現状に危機をつのらせているわたしとしては、このささやかな精神史が、戦争を知らない人たちにとっても、20世紀に生きた日本の先人たちの足跡をわがこととして考える契機となってくれればと、ひそかに希っている」(著者あとがきより)




その他のトピックス