みすず書房

どうも童話とエッセイは書けないようだ——それが私の長い間の固定観念であった。緊張の持続のはてに能力以上のものを無理強いにしぼり出してきた人間には、たしかにこの二つは書けないだろう。いつかエッセイ集をといわれていたが、実現するかどうか半信半疑であった。(「あとがき」より)
一精神科医として、日々患者の治療に携わってきた著者は、折りにふれて、みずからの思いを文章に書きつけてきた。自分の棲む街・神戸のこと、人との出会いと別れ、訪れた土地や自然、子ども時代の思い出、それに医療や教育、社会問題等々。
その一文一文には、昭和一ケタの最後の世代に生まれ、時代の絶望と希望を体現してきた著者のやさしさと強さがある。精神科治療の現場の緊張感の持続とそこからの解放感が、非凡な文学的才能とみごとに融けあっている。中井久夫が紡いだ初のエッセイ集を、ここにおくる。

目次

I
島の病院/たそがれ/信濃川の河口にて/龍安寺にて/ドイツの同世代の医師/N氏の手紙/過ぎた桜の花/ある応接間にて/ピーターの法則と教育の蟻地獄/日本人の宗教/日本の医学教育/桜は何の象徴か/人間であることの条件 英国の場合/ささやかな中国文化体験/「故老」になった気持ち/戦後に勇気づけられたこと/ロシア人/待つ文化、待たせる文化/花と時刻表/国際化と日の丸/一夜漬けのインドネシア語/荒川修作との一夜/淡路島について/顔写真のこと/花と微笑
II
神戸の光と影/あるドイツ人老教授の思い出/神戸の額縁/名谷に住む/住む場所の力/ある青年医師の英知/ワープロ考/神戸の額縁の中味/野口英世とプレセットさん/悲しい親たち/暴力に思う/ギリシャ詩に狂う/神戸の水/ある大叔父の晩年
III
私の仕事始め ウイルス学の徒弟時代/精神医学と階級制について/治療のジンクスなど 精神科医のダグアウト 1/私の入院 精神科医のダグアウト 2/神戸の精神医療の初体験 精神科医のダグアウト 3/知命の年に 精神科医のダグアウト 4/ジンクスとサイクルと世に棲む仕方と 精神科医のダグアウト 5/意地の場について/治療にみる意地/精神科医からみた子どもの問題/見えない病気の見えない苦労/精神科医としての神谷美恵子さんについて/井村恒郎先生/日本語を書く/一つの日本語観 連歌論の序章として

あとがき