みすず書房

この人物、世に広く知られた人間ではなかったが、知る人ぞ知る、只者ではなかった。両親は辻潤と伊藤野枝。幼くしてフランスに渡るも、帰国してはこれといった定職につかず、自由に絵を描き、エッセイを書き、風刺的画文をものし、スキーと岩魚釣りの名人にしてギターをよく弾いたが、いずれも余技の趣き、一個の専門家ではなかった。

この自由人の生身の言動はさておき、彼は生前に四冊の本を世に出した——『虫類図譜』『山からの絵本』『山の声』『山で一泊』——ここからわれわれは何を読みとるか? かねてから鍾愛の「辻まことをめぐって一冊の本を書いた……のこされたペンの仕事、また画ペンの仕事により、こちらの声はなるたけおさえて、辻まことに語ってもらう。耳をすませて、一心にその声を聴きとるような手法をとった」(あとがき)。

まさに同行二人——山と川をめぐり、時代と都市の喧騒をかいくぐって、辻まことという稀有の旅人に寄りそい、その精神とペンの運動の軌跡をゆったりと的確に辿りつつ、この単独者の魅力を声低く十全に開示したポルトレの傑作。