みすず書房

グラフィックデザインの第一人者として広く知られる著者、鈴木一誌。彼はまた、永きにわたって、映画、写真をはじめとする〈映像〉に強い関心を抱き、思索を深めてきた。本書は、「線と面」のタイトルで、「みすず」誌に長期連載した映像論を集成した、待望の書である。
北野武『HANA-BI』から驚くべきドキュメンタリスト、フレデリック・ワイズマンへ、あるいはゴダール畢生の大作『映画史』からレヴィ=ストロースの写真集が孕む謎へ。著者のずば抜けた感性が捉えた、映像=画面そのものの刺激的な分析を通して、観客としての我々の死角を鋭く衝く、斬新な思考が展開する。

「ワイズマン映画の見られるまま聞かれるままの映像と音に向かい合うとき、観客は写っているもののおもしろさと、写ってあることのおもしろさの、ふたつの世界を受け取る。観客の視線は、そのふたつのおもしろさをめまぐるしく往還している」。

連載時より密かに、しかし何よりも熱い注目を集めてきた、文字通り〈待たれていた〉批評家、初の評論集の誕生。満を持しての登場は、この秋、話題必至の事件とさえ言えよう。

著者からひとこと

書きためた原稿がようやく『画面の誕生』になった。オビに、「北野武、レヴィ=ストロース、ワイズマン、そしてゴダール」とあるように、劇映画、ドキュメンタリー映画、アニメーション、漫画、写真集、とさまざまな視覚世界を対象とした本書の目次を眺めながら、十数本それぞれの原稿で難儀をしたことを思いだす。その難儀さは、もちろんテーマにもよるが、扱うメディアの引用のしやすさ・しにくさにかかっていたようだ。

劇映画は、引用しやすい。シナリオが発表されていることがあるし、「だれかがなにをしたシーン」というように、前後の流れから「その場面」を指示できる。物語とは、「その場面」を同定する座標なのであろう。物語のある漫画も、なんとか引用できる。ドキュメンタリー映画はどうか。社会問題を告発するならば、そこにある種のストーリーがあることになるが、いくつものシークェンスを並置していくかに見えるワイズマン作品では、引用がむずかしい。さらに困難だったのが、ゴダールの『映画史』だ。『映画史』自体が、引用のかたまりだからだ。「その場面」が、もとの映画の引用ではなく、『映画史』からの引用であることをどう示すか。

書くことは、引用のしにくさに挑むことなのではないか。なにかを見出すとは、固形化された体系を細片化して見ることだ。その破片をいかに引用するのか、あらたな構文法が問われている。(2002年10月 鈴木一誌)