みすず書房

ドビュッシーをめぐる変奏

印象主義から遠く離れて

“Autour de Debussy” from VARIATIONS SUR LA MUSIQUE

判型 四六判
頁数 340頁
定価 4,180円 (本体:3,800円)
ISBN 978-4-622-07265-2
Cコード C0073
発行日 2012年2月23日
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ドビュッシーをめぐる変奏

「彼は音の世界を、多くの地区がいまだ探検されず白地のまま残っている一枚の地図のようなものと考えていた。」(本文より)
民族学者であると同時に音楽学者でもあるアンドレ・シェフネル。レヴィ=ストロースが「民族学に、その枠組みを大きく超えて、知的芸術的生活との連帯を保たせた」と評した彼は、ストラヴィンスキーの知己であり、現代を代表する作曲家ブーレーズの音楽思考にも大きな影響を与えた。
本書は、シェフネルが、彼自身生涯愛し続けた作曲家ドビュッシーについて書いた論考を集めた。ここでは、当時のフランスのロシア音楽ブームを背景としたムソルグスキーとの関係、美術愛好家でもあるドビュッシーの音楽の非‐印象主義的性格、ポーにもとづく音楽劇の計画に見られる〈恐怖を組織する音楽〉への指向、音楽批評家としての辛辣な表現の源、さらには作家セガレンとの師弟関係までもが論じられている。これら様々なテーマを通して浮かび上がってくるのは、「音の世界」の地図を携え、絶えず未知なるものを求めた作曲家の姿であり、シェフネルは、このドビュッシーの地図を、その感性と知性の双方でもって垣間見た数少ない人物の一人だった。

目次

I ある台本が気がかりで
II ドビュッシーとロシア音楽の関係
III ドビュッシーとシェイクスピア
IV ドビュッシーの想像劇
V ドビュッシーの絵画の趣味
VI クローシュ氏
VII 恐怖の演劇あるいは残酷の演劇?
VIII セガレンとドビュッシー 

註(原註/訳註)
訳者あとがき
人名註
人名索引

訳者からひとこと

『ドビュッシーをめぐる変奏』は、ドビュッシーの書簡、彼自身が書いた音楽批評、当時の新聞や雑誌などはもちろんのこと、同時代の美術界、文学界、演劇界の状況も視野に入れて、この作曲家の実像に迫る試みです。それはまた、ドビュッシーを革新的な音楽を生み出した孤高の作曲家としてではなく、彼が生きた時代の中に置き直して捉える正統な研究でもあります。結果として描き出されたドビュッシーは、私たちが今までもっていたイメージとはかなり異なったものです。意外と言ってもいいでしょう。もはや印象主義の作曲家、「フランスの香り」を漂わせるお洒落な作曲家ではありません。あらゆる芸術から受ける刺激に対して常に貪欲であり、恐怖、不安、苦悩といったモチーフに絶えず取り憑かれていた姿が浮かび上がってくるのです。

本書の特徴として、2つの点を挙げておきたいと思います。第1点は、研究書にもかかわらず、譜例などは一切使われていないことです。ドビュッシーの作品が細かく分析されているわけではないのです。楽譜を超えた何か、つまり音楽そのものが問題とされています。

レコードというものがあってこの種の比較対照が容易にできるのだから、『トリスタン』第2幕の前奏曲と『海』の第2楽章「波の戯れ」の冒頭を続けて聴いてみよう。そうするだけで、ヴァーグナーがドビュッシーに与えた影響がどれほど深く、抗しがたいものだったかがよく分かるだろう。これ以上に説得力のある検証はない。しかし、問題の2箇所をオーケストラ譜で読んでも、そのままなぞったような借用は見出せない。ヴァーグナーからドビュッシーへと繋がる系譜は、旋律様式や和声様式とは無関係なレヴェルで表現されているのである。(第VI章より)
そして、この姿勢は(こういう姿勢こそがと言うべきでしょうか)、音楽と他の芸術との比較を可能にするのです。

ドビュッシーはフローベールの作品を愛読していた。(中略)このすばらしい散文作家は、どれほど小さなリズムの変化だろうと、それが意味することを全体の構成の意味と結びつけた。ドビュッシーの『雲』や、それに劣らず特徴的なリズムをもつ彼の他の作品の展開は、フローベールの中にすでにあったのである。(第V章より)
もちろん、こうした比較を読む度に、私たちはシェフネルの浩瀚な教養に圧倒されます。しかしそれは、教養に流されることなく飽くまで音楽に耳を傾けている彼の節度ある態度に対する驚きへと変わります。楽譜にもとづいた精緻な研究を否定するつもりはありませんが、シェフネルの鋭い感性が、楽譜を介さずに見事な研究へと結実しているのを目の当たりにして、音楽学の在り方そのものについても改めて考えさせられます。

本書の特徴の2点目は、著者が、晩年のドビュッシーを実際に目にしていることです。確かに今年はドビュッシー生誕150年。現代の私たちにとっては、ドビュッシーはもはや歴史上の人物ですが、1895年生まれのシェフネルにとって、ドビュッシーは生身の人間でもあるのです。彼は、ドビュッシーが、あるときは、演奏会の舞台で自作を演奏するのを、あるときは、コンサートホールの客席でストラヴィンスキーやラヴェルを聴いているのを、あるときは、本屋をぶらついているのを注意深く見ています。したがって、ピアノを弾くドビュッシーを描いたレオン=ポール・ファルグの文章が引用されるのは、単なる資料としてではありません。

「最初は、鍵盤に軽く触れ、あちこちの鍵を叩き、闘牛をかわす闘牛士さながら両腕を左右に大きく振ったりして弾いているのだが、そのうちビロードの中を進むがごとく指を滑らせるようになり、時折、頭を下げたまま、美しい鼻声で、ささやくように歌うのだった。彼はピアノのお産を助けているかのようだった。ちょうど麦打ちをする者が自分の牛たちにするみたいに、ピアノをあやし、ピアノにやさしく語りかける。(中略)」この場において私は、以上のような描写が嘘偽りでないと請け合うことができる。ファルグのようにドビュッシーの即興に立ち会ったことはないものの、私は、幸運にも、1913年から1917年にかけて、演奏会で彼が自作を演奏するのを聴いている。そう、時折彼は鍵盤に軽く触れるだけだったし、あるいは楽器を新しく発明し直しているようにも見えたものである。(第 I 章より)
またシェフネルは、「ドビュッシーが公衆の面前でいたずらに興じるのを、とりわけ、手元にあると分かっている曲を探すふりをするのを、何度も見て」(第II章より)おり、このことは、私たちが、クロッシュ氏の言葉を通して垣間見る、ドビュッシーのユーモラスな一面と重なり合います。構造主義者たちによって作品が作者の手から解放されてすでに何十年も経ちますが、だからといって、作者の影を作品にまったく認めないわけにはいかないでしょう。特にそれが、ドビュッシーのような作者の場合には。シェフネルは、この研究において、初演時の観客の反応を非常に重要視しています。私たちも当時を知るシェフネルの証言を、そして本書に収められた論考を強靭に支えている彼の直感を大切にしたいものです。

ところで、これは研究書ですが、研究家だけでなく、もっと広く読まれるべき書物でもあります。特に、高校生、大学生に読んでもらいたいと思っています。(「高校生にこの本を?」という御仁もいらっしゃるかもしれませんが、読書好きの高校生なら、きっと目を輝かせて読んでくれるでしょう。高校生を侮ってはいけません。) こういう本があるということを、若いうちに知ってもらいたいからです。

日本の現状を見るに、読書とは、小説、あるいはノン・フィクションを読むことであって、それ以外の種類の本は等閑に付されがちであるように感じます。しかし、専門書と呼ばれる本のなかには、一般の読書人を満足させるものが、確かに存在します。私は、シェフネルのこの著作は、そうした本の一冊だと思うのですが、それでは、広く読まれる専門書の条件とは何でしょう。

私は、留学中に遭遇した一場面を思い出します。ヴァカンス前のある日、パリの本屋でのことです。若い女性が、たまたまそこで出会った初老の女性客に、読むべき本を訊ねていました。問われた女性は、本棚の間を忙しなく移動しながら、幾つかの本を推薦していました。そのとき、私の耳に聞こえてきたのが、「大切なのは、エクリチュールの力」という言葉でした。物語でもなく、内容の真実性でもなく、言葉の力。それも《書かれてある》言葉の力。これが、私たちを読書へと駆り立てるのではないでしょうか。

ここで、専門書は一般読者には難解なのだという反論が当然発せられることでしょう。もちろん、本書にも多くの人名が引かれており、その分野に馴染みの薄い読者には、読みにくい面があるのは否めません。しかし、このことが、この本に秘められている楽しみの邪魔になると考えるとしたら、なんと悲しいことでしょう。フランスでは、「食欲は食べているうちに、でてくる」と言われますが、必要な教養は、こうした本に触れ、「エクリチュールの力」に導かれることでつくものではないでしょうか。翻訳でこの「エクリチュールの力」なるものがどれだけ伝えられたか、心許ないところですが、専門書でも「楽しみとしての読書」が可能だと感じていただけたら、訳者としてこれにまさる喜びはありません。

最後に、今、出来上がった本を手にして、ある種の驚きをもって発見するのは、パラパラと拾い読みをしてみて、どの部分も、その文脈とは無関係に面白く読めるということです。といっても、収められている論考は、エピソードや思いつきの集まりではなく、ある論理でもって展開しています。ですが、その論理とは切り離して、2行、3行だけを取り上げて読んでも、非常に印象深いのです。「拾い読みを勧めるとは、不謹慎な」と思われるかもしれませんが、ときどき手にとって開いてみて、目にとまったところだけを読むというのも一つの読み方であり、こうした読み方こそが、本を愛することにつながります。私としては、できるだけ多くの人にこの本を愛していただきたいと願っています。

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