みすず書房

〈ナショナリズムの問題でいうと、進歩派の方は、今ある基地を撤廃し、安保条約の改正で現在アメリカの政策下にある日本を独立させる、そういうシンボルがある。そういう撤廃という、いわば消極的スローガンで訴えているんだな。日本の政治的、経済的自立の方向を積極的に作らなければならないということが打ち出されていない。そこに多くの人の素朴な疑問がある。アメリカが引き揚げてもやっていけるのかということについて、積極的な答えが出ていない。さらに大きく言えば、国際的な面についてのはっきりした答えが出ていない。〉
(「戦後日本の精神状況」1956年10月)
丸山眞男(1914‐1996)の没後に『丸山眞男手帖』(「丸山眞男手帖の会」発行の季刊雑誌)で発掘、記録された、丸山の文章・講演・座談・インタヴューを中心に収録。1936年、学生時代にノートに書かれた「現状維持と「現状打破」」から、1996年、最晩年の弔文「寺田熊雄追悼」まで。時代状況に向けられた批判的な視点、日本と西洋の先人や古典への深い読解が、ここに生き生きと語られる。丸山の言葉の最後の集大成を、全4巻でおくる。
第1巻には、庶民大学三島教室で行った講義の要旨原稿「十九世紀以降欧洲社会思想史」、『現代政治の思想と行動』の「追記及び補注」執筆の参考に行われた、石田雄、藤田省三との鼎談「戦後日本の精神状況」、『中国新聞』にまとめられたものの原型であるインタヴュー「二十四年目に語る被爆体験」など、全15編。

目次

I 現状維持(status quo)と「現状打破」(1936年頃)/?山政道教授行政学試験答案(1937年3月)/ホープに就て(1946年12月)/復古調をどう見るか(1953年12月)/満五才(1956年6月)/お茶の間政談(1959年12月)/六〇年安保への私見(1960年7月)
II 聞き書き 庶民大学三島教室(聞き手 久田邦明 1980年9月)/十九世紀以降欧洲社会思想史——特に独逸を中心として 庶民大学講義要旨(1946年2-4月)
III 1950年前後の平和問題(1977年5月)/南原先生と私——私個人の戦中・戦後の学問の歩み(1977年10月)/法・政治・人間——丸山先生と語る(1977年10月)/大山郁夫・生誕百年記念に寄せて(1980年11月)
IV 戦後日本の精神状況——『現代政治の思想と行動』をまとめるにあたって(鼎談 石田雄・藤田省三 1956年10月)/二十四年目に語る被爆体験(聞き手 林立雄 1969年8月)

第1刷・第2刷への訂正とお詫び

『丸山眞男話文集』1 の第1刷(2008年5月19日発行)および第2刷(2008年6月13日発行)156頁の註(55)は、正しくは以下の通りとなります。

ハロルド・ラスキ 丸山の思い違いであり、ロンドン政治経済学校を設立したのはシドニ・ウェブ。水田洋「記憶のなかの丸山眞男」(『象』45号、2003年春号)を参照。思い違いが生じた理由について、以下の説明を付している。「……専攻領域のちがいにもかかわらず、ということは後で述べるとして、ちがいからくるギャップの一例をあげると、『丸山眞男手帖23』の「聞き書き庶民大学三島教室(下)」にLSEすなわちロンドン政治経済学校のことがある。この種の発言を専攻領域の問題としてとりあげるのは、見当ちがいだといわれそうだが、ある意味では象徴的なのである。そこでラスキがオクスブリジに対抗して労働者学校としてLSEをつくったとされているのは、全部まちがいであって、シドニ・ウェブの主導でLSEが設立されたのは1895年であり、ラスキがハーヴァードから帰国して参加するのは、1920年なのだ。スクールであって「大学とは言わなかった」にいたっては、あたりまえの話でこのスクールは1900年にファカルティ(学部)として、ロンドン大学に包摂されたのだから大学と名のるわけにはいかないのである。労働者学校は、バークベック・カレジであってLSEではない。オクスブリジへの対抗者としてなら、LSEではなく、ベンサムやミルのユニヴァシティ・カレジ・ロンドンをとりあげるべきだったろう。」

ご指摘いただきました水田洋先生に感謝いたしますとともに、読者の皆様に謹んでお詫び申し上げます。(2010年6月)

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