みすず書房

われらのジョイス

五人のアイルランド人による回想

THE JOICE WE KNEW

判型 四六変型
頁数 200頁
定価 3,520円 (本体:3,200円)
ISBN 978-4-622-07477-9
Cコード C0098
発行日 2009年6月24日
備考 在庫僅少
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われらのジョイス

「ジョイスさん、あなたはコスモポリタンのような顔をしていらっしゃいますが、でもお考えになることはダブリンのことばかり……」この質問に彼は妙な微笑を浮かべてこう答えた……「イギリスに、私が死んだとき心臓にはカレーという語が書かれているでしょう、と言った女王がいました。私の心臓には〈ダブリン〉という語が書かれているでしょう」

本書は、五人のアイルランド人によるジョイス回想記である。編著者のオコナーはジョイスと同じユニヴァーシティ・コレッジを卒業し、弁護士・文筆業で活躍している。五人はそれぞれ、ダブリンの学生時代、『フィネガンズ・ウェイク』のパリ時代、チューリヒの死期間近の作家を生き生きと描いている。小著ながら本書には、エルマンの大著『ジョイス伝』に洩れている事実もあり、有益かつ貴重な記録となっている。いかにも運動音痴に見えるジョイスが泳ぎの名手であり、かなり熱狂的なラグビー・ファンであったことなどは初耳であろう。他にも細部に新発見があり、アイルランドに深く関わったジョイス文学への魅力的な道案内となっている。

目次

謝辞
序文
ユージン・シーヒー(1883-1957)
ウィリアム・ファロン(1881-1958)
パードリック・コラム(1881-1972)
アーサー・パワー(1891-1984)
ショーン・レスター(1888-1959)
訳注
主要文献
訳者あとがき

目次の補足——営業部より

この本の目次は、ジョイスを知る同時代人五人の名前が並ぶだけなので、五人の回想記のそれぞれに添えられた編者オコナーの解説の、書き出しの部分をご紹介します。

ユージン・シーヒー(1883-1957)
ユージン・シーヒーは1898年から1902年にかけて、ユニヴァーシティ・コレッジでジョイスと学業を共にした。知り合ったのはベルヴェディアで、ジョイスはここではユージンの兄のディックとたいへん仲がよかった。ジョイスは早くからメアリ・シーヒーに夢中になった。メアリはシーヒー兄弟の美人の姉妹で、『若い芸術家の肖像』のエマ・クリアリのモデルになった。〔……〕

ウィリアム・ファロン(1881-1958)
ユージン・シーヒーと同様、ウィリアム・ファロンはベルヴェディア・コレッジとユニヴァーシティ・コレッジでジェイムズ・ジョイスの学友だった。ファロンと知り合ったのは私がダブリン法律図書館で法廷弁護士をしていたときのことで、ここで私たちは学校友達の“ジス”(これがファロンによるジョイスの名前の発音だった)のことをよく話題にした。ファロンは『若い芸術家の肖像』に実名で登場する。〔……〕

パードリック・コラム(1881-1972)
パードリック・コラムは1881年12月8日の生まれ、父親はロングフォード救貧院の院長をしていたが、後年、ダブリンのサンディコーヴに住むようになり、パードリックはここで育った。事務職員として就職するが、かたわら詩を書き、アイルランド文芸復興黄金時代の注目すべき劇作家・詩人の一人に数えられた。知人にイェイツ、シング、グレゴリー夫人、ジェイムズ・スティーヴンズがいた。〔……〕

アーサー・パワー(1891-1984)
アーサー・パワーはウォーターフォード州のベルヴューに一族の家があったアングロ・アイリッシュのジェントルマンで、宗教改革の間、英国教会に従わなかったが土地を保有した、古いカトリックの家柄の出だった。イギリスのパブリック・スクールで教育を受けた。一族の多くの者が陸軍に入り、アーサーは第一次大戦時、イープルで機甲部隊に入って戦い、1916年に傷病兵となった。戦後、パリに移り住み〔……〕

ショーン・レスター(1888-1959)
ジョン・アーネスト・レスターはアルスターのプロテスタントの家系の出で、ベルファーストのメソディスト・コレッジの教育を受けた。若い頃、ベルファーストでゲーリック・リーグをとおして民族運動に関わり、ダブリンに出て来たとき、「フリーマンズ・ジャーナル」の報道編集者になった。1929年、その頃には新しい「自由国」の公務員になっていた彼は、アイルランド代表としてジュネーヴの国際連盟に派遣された。〔……〕

書評情報

朝日新聞
2009年7月19日(日)
こどもとしょかん
2012年秋号

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