みすず書房

「私がこの“試行錯誤”ということを最初に思ったのは、パブロ・カザルスの、バッハの『無伴奏チェロ組曲』を弾いているときに聞こえる、弦の上を指が動いてこすれる音と弓が弦に触れる瞬間の音楽になる一瞬間の音だった。どちらもノイズということだが、私はこれを最高級の蓄音機でSPレコードを再生してもらって聴くと、奏者と楽器が自分がいまいるまったく同じこの空間にいると感じられるほどリアルという以上に物質的で、その音からブルースが聞こえた。
弦の上を指が動いてこすれる音や弓が弦に触れる瞬間の音はだからノイズではない。その音が弦楽器を弦楽器たらしめ、チェロをチェロたらしめる。カザルスが弾いた音の中にブルースの響きまであったのではなく、そのこすれる音の中にカザルスの演奏がありブルースもあった。弦楽器が譜面=記号で再現可能な行儀のいい音の範囲を出るときに、奏者の指も体もそこにあらわれ、肉声もあらわれる。(…)
表現や演奏が実行される前に、まずその人がいる。その人は体を持って存在し、その体は向き不向きによっていろいろな表現の形式の試行錯誤の厚みに向かって開かれている」
(本書「弦に指がこすれる音」より)

「私」をほどいていく小説家の思考=言葉。
芸術の真髄へといざなう21世紀の風姿花伝。

目次

1 弦に指がこすれる音
2 方向がない状態
3 果てもなくつづく言葉の流れ
4 書き手の時間・揺れ
5 小説という空間
6 未整理・未発表と形
7 ランボーのぶつくさ
8 一字一句忘れない
9 読者の注意力で
   読書アンケート 2012
10 作者の位置から落ちる
11 素振りについて
12 小さい声で書く
13 そのつど映るラストの場面
14 意識と一人称
15 読者と同じである作者
16 そこにある小説
17 小説は作者を超える(1)
18 小説は作者を超える(2)
   読書アンケート 2013
19 書きながら生まれる感じ
20 『朝露通信』通信
21 神に聞かれないように祈る
22 奥の奥の光景
23 おせち料理の絵
24 出会い三題
   読書アンケート 2014
25 ナットとボルト
26 ザワザワしてる
27 ラカンに帰郷した
28 言葉はいつ働き出すのか
29 論理、自我、エス、スラム
30 全くそうであり全くそうでない
31 下から上に向かって読む
32 運命と報酬

あとがき

書評情報

日本経済新聞「語る」
2016年11月28日(月)
大竹昭子(作家)
朝日新聞2016年12月4日(日)
佐々木敦(批評家)
日本経済新聞2016年12月4日(日)
町田康(作家)
エコノミスト「読書日記」2016年12月20日号

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[トピックス]刊行を記念して、2つのイベントを開催します

「毎月届けられる原稿の思考の勢いを追いかけるので精一杯だった担当編集者の実感としてはあっという間の4年間でした。嬉しさと同時に淋しさを味わいながら、本書の刊行を記念して、2つのイベントを開催します」