みすず書房

トラウマという言葉が飛び交うようになって久しい。冷戦終結後には世界各地で内戦が起こり、「民族浄化」という名の虐殺がつづいた。9・11以降、世界の暴力化は加速していき、イラク戦争下の2004年にはアブグレイブの拷問の写真が新聞の一面を飾った。もとは米国でのベトナム戦争帰還兵への対処から生まれたPTSD概念も、トラウマ同様、日本では阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件をきっかけに注目され、自然災害や交通事故から殺傷事件、ドメスティック・バイオレンス、レイプや幼児虐待その他、それぞれの事情に対処するための重要なキイワードとなってきた。
だが、これらの言葉は正しく理解されているのだろうか。ヴィジョンなき概念の使用から、さまざまな問題が生まれてきているのではないだろうか。
大学で平和社会論を教えるいっぽう、精神科医として医療人類学・文化精神医学にかかわり、性暴力についてのカウンセリングや難民医療にも力を注いできた著者は、このような時代の中で、何を考え、どのような実践をしてきたのか。本書にはそのすべてが映し出されている。移住者問題、薬害エイズ、「慰安婦」問題、PTSD概念と法・裁判、拷問とトラウマ、マイノリティのための精神医学など、その力強く具体的な筆致からは、今を生きるわれわれへの大切なメッセージが伝わってくる。

[初版2005年7月20日発行]

目次

I トラウマの医療人類学
トラウマと歴史・社会
トラウマと距離
「加害者」の恐怖
ベトナム帰還兵とは誰のことか?
9・11以前と以後に
2002年に観る『ショアー』
トラウマの演出と証言の真実らしさ
マイノリティのトラウマ
マイノリティと狭義のトラウマ体験
薬害エイズとトラウマ
薬害エイズと告知
「慰安婦」問題と現代の性暴力——イ・オクソン・ハルモニの来日によせて
ハルモニの証言と傷の存在・不在
身体について
子どものトラウマの半世紀後の影響——ACE研究について
オノ・ヨーコの世界
アブグレイブの写真

II トラウマ・暴力・法
想像力と「意味」——性暴力と心的外傷試論
PTSD概念を法はどう受け止めるべきか?
精神医療と日本文化——「失調」と「障害」についての一考察
拷問とトラウマ

III 文化精神医学と国際協力
医療人類学と自らの癒し
フィールドの入り口で——あるいは文化精神医学らしさという呪縛
揺らぐアイデンティティと多文化間精神医学
移住者のこころの健康と〈ヘルスケア・システム〉
マイノリティのための精神医学
難民を救えるか?——国際医療援助の現場に走る世界の断層

あとがき
初出一覧