みすず書房

免疫はこんな風に書くことができるのかと驚いた

Ph・クリルスキー『免疫の科学論――偶然性と複雑性のゲーム』矢倉英隆訳

2018.06.26

感染症に関する本をいくつか作った際に、免疫にがぜん興味がわいてきて、解説書をいくつか読んだ。B細胞、細胞傷害性T細胞、MHC、マクロファージ、CD4、CD8、抗原提示、免疫グロブリン、オプソニン化、リガンド……。根気よく各々の働きや仕組みを理解するよう努めてみたが、どうにも分からない。点としての情報が増えるばかりで、それを結んで全貌の輪郭を描く線が見えてこない気がした。結局、多田富雄『免疫の意味論』を再読して免疫マイブームはいったん収束したのだったが、その後本書に出会って再発した。免疫はこんな風に書くことができるのかと驚いた。

その著者が先日来日し、日仏交流160周年を記念して開催された「免疫と感染症に関する日仏セミナー」で講演した。セミナーは、パスツール研究所と京都大学、東京大学との各共同研究の発表、クリルスキー先生の特別講演、パネルディスカッションなどからなっていたが、やはり今注目の腸内細菌叢と、がん免疫療法がもっとも関心を集めていたように思う。とくに、免疫グロブリンA(IgA)の欠損もしくは不足が腸内の微生物のバランスを乱し、その結果全身の免疫系が重度に活性化されるという発表には、会場中が聞き耳を立てていた。がん免疫療法はまだこれからの分野だが、語るほうにも聴くほうにも、いちばん熱気の感じられるトピックだった。それと同時に、がんというもののとらえ方への疑問も呈された。がんはもはや疾病ではなくphysiology(生理機能)である、という発言が印象的だった。セミナー後の懇親会で、IgAに関する発表を行った研究者と話したところ、長年慣れ親しんだ専門分野である胃腸から脳へ転向するので、猛勉強中とのことだった。腸内細菌を研究するうちに、脳とのつながりへの関心が高まったのだそうだ。免疫系についても、そうした研究から新しい知見が生まれるに違いない。

クリルスキー先生の講演は、来日の少し前に刊行された『免疫の科学論』の内容に沿いつつ、当日の様々な発表を包含するようなかたちで科学研究のありかたに重点を置いていた。本書からも窺えるが、クリルスキー先生は科学研究は論理を持つべきという立場で、従来の免疫解説書と大きく異なる本書のような著作が生まれたのもよく分かる。本書はコレージュ・ド・フランスで14年にわたって行った分子免疫学講座がもとになっており、先生は教育機関としてのコレージュ・ド・フランスを非常に高く評価していた。私が先生と雑談を交わしたのはセミナー後の懇親会だったが、コレージュ・ド・フランスには私も一度だけ行ったことがあったので、聴講した講義のことを話そうと思ったら肝心のキーワードがふと思い出せなくなった。2秒ほど床の絨毯をみつめて考えていたら「きっと、白ワインが足りないのです」と助け舟を出してくださり、何の効果かよく分からないが、白ワインの追加注入で本当に記憶が戻った。コレージュ・ド・フランスはパリのソルボンヌ大学の向いに位置し、最先端の知を一般市民に公開している本当にユニークな教育機関だ。誰でも聴講でき、予約も登録も要らない。授業料も不要。一流の教授陣には完全な自由が約束されている。自分は全くの専門外であるがと前置きしつつ、同僚の法学の先生の本を薦めてくださった。確かに非常に興味深い内容だったので、企画になるかもしれない。クリルスキー先生の幅の広さに感服し、ユーモアに親しみを感じた。

セミナーは、登壇者の8割がたが日本人の先生だったにもかかわらず、最初の発表以降は、どういうわけか司会までもが英語になってしまった。逆に言えば、英語の覇権は大変便利な状況を生んだということなのだが、地域の独自性までもが消えて世界が均一になっていくとしたら残念だ。本書もフランスの伝統的知のありかたがよく生かされた著作であると思うし、ご本人も英米圏での科学研究のありかたとの違いを意識されておられた。日本で刊行される科学ノンフィクションも、翻訳書は軒並み英語からの翻訳である。そうした中に、少し毛色の違うものを出していくのは難しいのかもしれないが、これからも挑戦していきたい。