みすず書房

『免疫の科学論』書評=大野秀樹「免疫学は神経科学を凌駕した」

クリルスキー『免疫の科学論――偶然性と複雑性のゲーム』矢倉英隆訳

2018.09.15

大野秀樹(社会医療法人財団大和会理事長・杏林大学名誉教授)によるすばらしい書評を、筆者ならびに初出の図書新聞(第3367号、2018年9月15日土曜日)の許諾を得て、ここに転載いたします。

免疫学は神経科学を凌駕した

生き残るには、偶然性に支配されるような出来事によって妨害を受けても、なお適切に機能する「ロバストネス」が重要だ
大野秀樹

映画監督・井筒和幸の呟き。〈酷暑が人の命を脅かし続けている。そんな中、我らはうな丼でもホルモン焼きでも冷やし中華でも何でも食らい、無類の徒たちの昭和史の映画撮影準備に追われている。資料を調べていると、いつの時代も、人は生き残ろうとするか諦めてしまうか、どっちかだと気がついた〉(日刊ゲンダイDIGITAL 2018年7月28日)。

従来、生物学者は、生き残るメカニズムよりは生きるメカニズムについて考えてきた。フランス科学アカデミー会員であり、免疫学の世界的権威である著者のフィリップ・クリルスキーは、「生きるだけでは不十分で、生き残らなければならない」を中心テーマに本書を著した。何から生き残るのか。それは、自然の物理的な影響に加え、細菌、ウイルス、寄生虫などの病原体からなる外部の敵ばかりではなく、がん、自己免疫病、神経変性疾患などのしばしば生命に不可欠なメカニズムに生じる数限りない不可避の誤りに由来する内部の危険性からだ。偶然性がつくりうる生物学的な逆境すべてだ。

本書は、免疫学の世界を広範に紹介しているが、教科書や最新の科学情報集を目指してはいない。その証しとして、図表の類いはほとんどない。きわめて重要なわりにはあまりにも知られていない領域の、単純ではあるが的確なイメージを伝える指針、原理、目印を提供することが目的であった。免疫学は、本質的な複雑性に向き合い、執拗にその中に入り込み、重要な進歩を生み出すことに成功した最初の生物科学の一つであった。その点において、免疫学は、脳に関するさらに大きな複雑性の問題に確固として取り組んでいる神経科学を凌駕したようだ。免疫学は、生体防御システムの特異性の基礎にある分子的要素を解読することに成功したが、神経科学は、精神機能の活動に関与するニューロン、あるいはニューロンの亜集団の特異性の記述において、免疫学の精度のレベルにはまだ達していない。しかし、免疫学は、実験科学の姉にあたる物理学の形式化の段階にはまだ遠く及ばない。

本書は、図表がなくとも、(著者が)専門家を退屈させることになったかもしれないと危惧するくらいやさしく明解に書かれており、初心者でも著者の概念を繰り返し読むうちに、頭の中に具体的なイメージが浮き上がってくるに違いない。これは、著者がほぼ完璧に免疫学を理解しているからなせるわざだ。さらに、すでに述べた重要なわりにはあまりにも知られていない領域にメスを入れた点に、従来にない新規性がある。例えば、病原体との出会いを含む環境における偶然性と、がんを含む内部環境における偶然性によってもたらされる問題を、同一のアプローチで扱う点だ。これは、生物の外と同様に内に向けられる装置の共同体がもたらす免疫という概念へと導く。この概念は、自然免疫(外来因子の直接認識から生じ、即時あるいは急速な反応を惹起する防衛装置の総体)は、獲得免疫(膨大な数の特異的受容体をつくり出す能力による、ほとんどすべての抗原に対してほぼ万能の応答が可能な防衛システム)と合体しており、それを分けようとするのは論理的ではない、という考えに繋がる。

とりわけユニークな発想は、「柔らかい」モジュール[輪郭が不明瞭で不安定な細胞の機能的な集合体(炎症反応の際に起こる細胞の集合や腸内微生物叢など)であり、すべての複雑系はより詳細に把握するためにモジュールに分解できる]である。一方、「硬い」モジュールは変化しない明確な輪郭をもつもので、臓器や組織を示す。1000兆もの腸内細菌が織りなす騒々しい世界とのインターフェースを管理している腸粘膜は、一つの免疫臓器といってよい。なぜなら、免疫細胞の6-7割が腸に存在するからだ。加えて、迷走神経を介して脳と繋がる腸は第二の脳と呼ばれ、さまざまな生活習慣病にも関連している。微生物叢は常に更新され、腸粘膜自体も非常に急速に入れ替わっており、準臓器と名づけられた。興味深いことに、固形腫瘍も準臓器に分類される。

「生き残らなければならない」に大きな貢献をしている、と著者が強調しているのが「ロバストネス」だ。しばしば偶然性に支配されるような出来事によって妨害を受けてもなお適切に機能するシステムの能力である。著者は、進化の主要な原動力は新たな機能の獲得よりはロバストネスの改良であり、脆弱性の問題の減少である、という仮説をもつ。実際、我々の体内で絶えず起こる多くの高頻度の誤りが不可避であるということは、生物のシステムにおけるロバストネスと品質管理の占める部分が重要であることを示唆している。品質管理、監視、異常の修復という三つの装置をもつ「生体防御システム」の中で、免疫系は大きな位置を占めており、ロバストネスは生き残り装置の要である。ロバストネスが包括的な概念の枠組みを提供しているのであれば、ヒトにおいて自然免疫と獲得免疫との間に明確な区別をする理由はもはや見当たらない。我々の体は、複雑系の意味においてロバストであるが、免疫学の専門家は現在までロバストネスの概念にほとんど注意を払わないできた。

細菌からヒトに至る生物の超複雑性は重大な問題を投げかけており、超複雑性を概念化し、それを管理するためには新しい数学的手段が必要だ。こうして、「古典生物学」は遺伝子を中心としたままだが――古典物理学と相対性理論・量子力学がお互いを補完し合っているように――その横には非古典的な生物学、すなわち複雑なネットワークを軸に展開される「量子の生物学」が生まれるかもしれない、と著者は予想している。

これまでとは違った角度から切り込んだ個性あふれる免疫学を学べるとともに、免疫細胞だけではなく体のあらゆる細胞は「知的」であり、他の細胞との会話にその「知性」を働かせている、などという著者の哲学的世界を楽しむことが、本書の最大の魅力かもしれない。

(おおの・ひでき 社会医療法人財団大和会理事長・杏林大学名誉教授)
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