みすず書房

「動き、変化し、過ぎ去り、消える──そんな食の側面」(あとがき)

三浦哲哉『食べたくなる本』

2019.03.11

これはグルメ本ではありません。

さまざまな料理書を通じて、私たちの日々の「食べること」を考える本です。

たとえばこんな一節。

肉ならば肉を、パンではさみ、覆い隠す。それはある意味では擬態である。頭では、もちろん、それがたかだか肉をパンではさんだものにすぎないことがわかっている。けれども、唇と舌は最初にパンと触れるから、パンに対してなされる強い加減の、あむっという噛みしめる動きが反射的に起こり、すると、ふだんよりも深く、歯は肉に突き刺さってゆく。そのあとも、口の中に留まるパンのかけらの感触によって、噛みしめる動きが弱まることはない。だから、具材の風味がいつもよりも奥深くから引き出される。そのとき生まれている「差」が、驚きをもたらす。おそらく、ここで私たちは、無意識の営みであるところの「噛み」、「飲み下す」という習慣の在りようまでも、再発見することになるのではないか(「16 サンドイッチ考」)

取り上げられる料理書は、丸元淑生『家庭の魚料理』、畑中三応子『ファッション・フード、あります。』、『聞き書 福島の食事』、東理夫『アメリカは食べる。』、キャスリーン・フリン『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』、土井善晴『一汁一菜でよいという提案』、高山なおみ『諸国空想料理店』、細川亜衣『愛しの皿』、有元葉子『ためない暮らし』、小林ケンタロウ『とびっきりの、どんぶり』、小泉武夫『中国怪食紀行』、冷水希三子『スープとパン』、奥田政行『田舎町のリストランテ、頑張る。』、勝見洋一『中国料理の迷宮』、五十嵐泰正『原発事故と「食」』等々、等々、……。

映画研究家である三浦さんが、なぜこのような「料理本批評」を書くことになったのか。そもそもなぜ料理の本に、これほど惹かれてきたのか。映画と食の関係については、「あとがき」でこのように説明しています。

最初はあまり意識していなかったのだが(たんに好きだから書く、と思っていた)、途中で気づいたのは、映画から受け取ってきた驚きや高揚やサスペンスを、私は食からもかなり同様に受け取っているということだった。動き、変化し、過ぎ去り、消える──そんな食の側面にとくに注目する傾向が本書にはあるだろう

ではなぜ料理書なのか。本書の冒頭で三浦さんはこう語ります。

(…)料理書に惹かれるもう一つの理由は、もっと単純なもので、よそでなにをどう食べているのか、ということが気になってしかたがないのである。こちらのほうがより根本的な動機と言えるかもしれない。自分以外の誰がなにを食べているかなど、まったく気にならないという方もいらっしゃるだろうが、私にとって、これほど知って楽しいことはない。
(…)こういうことが気になってしかたがない者にとって、料理本を読むことほどおもしろいことはない。名料理人の手になる教本であれ、家庭料理のレシピ集であれ、各国料理、郷土料理、あるいは、失われた過去の時代の調理方法について記された本であれ、体験記、雑記であれ、こんな食べ方があるのだ、という発見を与えてくれる文章を読むことはよろこびである。エキセントリックなものはなおさら大歓迎だ

そう。私が毎日食べているように、他の人もみな毎日食べている。よそでなにをどう食べているか――、そこには発見や、教わることや、反撥や、共感など、さまざまな感想があるでしょう。振り返って、自分はいつもなにをどう食べているのか、あらためて考えさせられる。そしてまた「食べたくなる」のです。