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2019.02.22トピックス

松本潤一郎『ドゥルーズとマルクス――近傍のコミュニズム』あとがき

資本主義を歴史化し、物語を終わらせること。ドゥルーズ哲学と「歴史家」マルクスとの遭遇から垣間見るコミュニズムという近傍ゾーン。
本書「あとがき」のほぼ全文を、以下でお読みになれます。

松本潤一郎

ドゥルーズとガタリがマルクスを受けて指摘したように、資本主義が〈世界史〉という視点を成り立たせたのだとすれば、資本主義そのものを歴史化するにはどうすればよいのだろうか――本書冒頭の論考を書くにあたっては、そのようなモチーフがありました。
マルクスは産業資本主義の仕組みを解明し、それを過去のものにして、「むかしむかし資本主義というものがあった……」と始まる物語を完成させようとしました。物語は完成しなかったものの、その〈終わり〉の素描を彼は遺しました。〈終わり〉がどのようなものかを私たちは知っています。この物語を終わらせるのは歴史のなかにいる私たちであり、完結した物語を語るのは私たちの後に来る人たちであり、私たちが私たちを終わらせないかぎり、〈私たち〉の後にはだれも来ません。〈はじめ〉があるものには〈終わり〉があります。だから終わらせること。〈資本主義を歴史化する〉とはそういうことでした。

それでは資本主義に〈はじめ〉はあるのでしょうか?――本書はこの問いに正面から答えていません。資本と労働の〈出会い〉という〈始まり〉を仄めかす徴候が、〈世界史〉のいたるところに見つかるからです。資本と労働の〈限りない〉接近は、いつどこでどのようにしてひとつの〈出会い〉になるのでしょうか。巻頭論文で述べた、〈Si …, alors…〉(もし――であれば、それなら――)の仕組みに〈出会い〉の問題はかかわっています。少しだけ書いておきます。
この表現は『経哲草稿』にあらわれます。「産業の宦官」たる生産者が、所有欲に憑(衝)かれた〈愛すべき隣人〉たるキリスト教徒をそそのかしてさらなる所有を煽るという寓話的場面です。宦官が隣人に向かって、「きみがそれを欲するのであれば、それなら私がそれをきみに与えよう」と、一見したところ隣人自身の自発的とみえる願望に譲歩して、その願望充足に協力し、見返りに手付け金(資本として蓄積される剰余価値とおぼしい)を受けとる手筈になっています。
隣人はあらゆるものを手に入れるという資本主義の欲望に憑かれていますが、そこには、宦官(不可能な願望充足を暗示する)の不在の欲望も含まれています。宦官は隣人を通して、みずからの不可能な欲望を実現していないでしょうか。本書で述べたように、資本には実体がありません。それは生産から流通を経て消費にいたり、そしてふたたび生産へ――という円環運動の〈すべて〉です。貨幣も資産も、そのものとしては資本ではありません。不在の欲望とその不可能な実現はこの事態に対応します。「欲望は他者の欲望である」(ヘーゲル)わけです。

腹話術と形容すべきか自由間接話法と呼ぶべきか、いずれにしてもこの寓話は、資本主義の仕組みの自作自演的性質を示します。資本は私たちに欲望を吹きこんだうえで、「きみがそれを欲するのであれば、それなら――」をもって私たちを円環に引きずりこむのです。この仕組みはすべてを手に入れたいという願望から生まれるのでしょうか。仕組みが先にあるから願望が生じるのでしょうか。マルクスの立場は後者でした。この仕組みはしかも願望に依存しつつ、仕組みを拡大させてゆきます。先後がひっくりかえっているのです。
この先後のとりちがえは〈資本と労働の出会い〉においても起きていると思われます。それは〈世界史〉のいつどこで起きてもよかった――そう指摘する記述者を通して、資本主義は事後的に、世界に先行するものとして世界を覆い、〈世界史〉という視点を成り立たせるのではないでしょうか。〈出会い〉が起こるのは潜在的なものの次元、ドゥルーズが『意味の論理学』で論じた〈出来事〉や『千のプラトー』における〈此性〉の様相においてのことです。このフィクショナルな様相が「もし――であれば」に対応し、続く「それなら――」において時空の制約を被った〈事物の状態〉が展開されるのではないでしょうか。
〈始まり〉は不在としてあります。「もし資本と労働が出会ったのであれば」という条件法のカタパルトなくして産業資本主義は現実に成立しなかった。条件法に導かれて事実が起きた。両者の結合は必然ではないし、因果関係にもない。巻頭論文で私が言いたかったことは、だとすれば「もし資本と労働が出会わなかったのであれば」をカタパルトとして描きだされる軌道を〈私たち〉には構想することができるし、その構想を実現することもできるのではないかということでした。資本主義が私たちの脳スクリーンに投影する私有制ユートピアとは異なる世界、封建制による拘束からの逃走が資本主義による労働力商品の捕獲と順接せず、ねじれて遠ざかりつづけていく世界を描出できるのではないか。条件法が用いられる条件を洗いだせば資本主義を歴史化し、この物語を終わらせられるのではないかと。

『経哲草稿』の〈隣人〉は、宦官とともにひとつの〈近傍〉、欲望の脱領土化と再領土化が交差する不可識別ゾーンを配備してもいます。宦官の欲望と隣人のそれがたがいに生成変化してひとつのブロックを構成すると言ってもいいでしょう。これに倣い、資本主義の裏面に随伴する資本主義の分身としてのコミュニズムというユートピアを垣間見るべく、私はドゥルーズとマルクスを通して時空の距たりに制約されないひとつの〈近傍〉ゾーンをつくろうとしました。
『千のプラトー』には、たとえばルソーの〈社会契約〉を無限の彼方から〈此処〉に届く指令‐呼びかけととらえる箇所があります。自然状態から市民社会への移行は瞬時になされる非身体的変形であり、この瞬間は無限遠に投影された、社会の〈起源‐始まり〉です。無限に小さな瞬間において、自然と社会はたがいに限りなく近づきます。私たちの社会は、遠きものの投影であり、むしろ自然と隣接する。離れれば離れるほど、私たちは自然に近づくというのです。ルソーの〈一般意志〉とは、分岐するほどいっそう綜合されるベンヤミン‐ガタリ的思考の先駆ではないでしょうか。人民の意志は割れるほどに統一されるからです。マルクスはルソーの〈自然〉を資本主義社会に注ぎこもうとしていたのかもしれません。
いずれにせよ本書は資本主義の〈近傍〉にコミュニズムを探る試みであり、ドゥルーズとマルクスをうまく縒りあわせると浮かびあがる〈近傍〉のユートピアを、資本主義の近傍に幻視するための端緒になります。〈私たち〉を終わらせる探究を継続するための、本書は経過報告です。

copyright © MATSUMOTO Junichiro 2019
(著者の許諾を得て転載しています。
転載にあたり読み易いよう行のあきを加えた箇所があります)




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