みすず書房

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植田実『都市住宅クロニクル』 I・II

[全2巻]

「町屋」発コルビュジエ経由「塔の家」

10代の終わりごろ、といえばもう四半世紀以上前のことだが、知人宅を訪ねていって、いわゆる京都の「町屋」をそうと知らずに体験した。通り表からの想像とは裏腹に、通り庭を伝って奥へ奥へと引き込まれ、やがてぽっかり空いた中庭にたどり着いたとき、縁側に座って牛乳を紙パックのままグイ飲みする知人の姿にまですっかり感服してしまっていた。京都っ子の余裕というのか、まさに懐の深さというのか。
むろん「感服」の本筋は空間それ自体にあって、どこかその感触は後年、たとえば同潤会アパートや自由学園明日館の内部を徘徊して味わったスリルと似ている。おのずと探検隊の一員にでもなったような、もっととどまって鬼ごっこでもしていたいような。いや、そんな過去の建築見聞に限らず、本郷の路地をくねくね歩くふだんの愉悦に通じている。それもそのはず、京都の町屋は近世になって成立しているが、課税対象となる間口幅はそのままに、広場や畑、井戸や便所、路地や裏長屋など四周に家が建ち並んだグリッド内部の共有スペースを徐々に取り込んでいった結果としてあるからだ。つまり、時代に応じて都市機能を内包していく住形式の、これはしたたかな特殊解なのである。

『都市住宅クロニクル』編集作業中、ただ一度だけの町屋訪問の記憶がまざまざとよみがえってきたのは、とりわけ1960-70年代、住宅ラディカリズムの一翼を担った「大阪」「関西」ブランドについて、著者・植田実さんの文章が幾度となく強調していたためである。いわく東孝光、大阪出身。いわく安藤忠雄、大阪出身。そしてクライアントまで含めて「大阪あるいは関西圏では、東京の人間には体験しえない都市生活のイメージがはっきり見えているのではないか」。
たとえば「塔の家」(東孝光、1967)をめぐって、本書はその出現の衝撃を同時代的に伝える一方、あっさりとこんなふうにコメントしている。「断面図を間取りと思えばわかりやすいくらいで、要するに部屋をひとつずつ積み重ねたと理解してもいい」。さて、そこで京都の「町屋」である。背後に「部屋をひとつずつ」継ぎ足した形状ゆえに「鰻の寝床」の異名をもつが、こんどは間口のみならず奥行きも大幅に制限されたとしよう。やむなく表通り側を起点に1階平面を90度回転、垂直に起こしてみると、通り庭はそのまま階段室、中庭はテラスや内外の吹き抜けに変換され……つまりは「塔の家」である。

寝室から傘差して、と揶揄された「住吉の長屋」(安藤忠雄、1976)の動線は、汲み取り式由来の配置、風呂はあっても別棟の町屋や長屋を思えば、たしかに建築家自身が述懐するように「ごく当たり前」の選択だったかもしれない(逆に最近、分譲マンションの間取りで個室横にトイレを押し込んだ例をみかけるけれど、他人事ながら、なんだか部屋隅に置かれたオマルみたいで落ち着かない)。しかし、筋道として「住宅計画の常識」が括弧に入れられたのは、「塔の家」と同じく狭小面積という制約上からである。そして通常ありがちな前庭や後庭は排し敷地いっぱいに箱を押し広げ、その中央に外部への開口を一点集中させることで中庭‐長屋の新たな解釈が引き出された。「私はそこで安藤の建築を見る以上に、長屋という住居が生きているかたちをはじめて見た」とまで植田さんは記す。
木造コートハウスからコンクリートの町屋・長屋までのあいだには、いうまでもなく近代建築という因子が介在している。具体的にはル・コルビュジエ直系のモダニズム、より限定すれば坂倉準三建築研究所大阪支所。長く支所長を務めた西沢文隆は滋賀県出身、名高い「正面のない家」シリーズの設計者であり、和洋問わずコートハウスの研究者だった。東孝光はこの事務所を経て独立している。また安藤忠雄は、「常に厳しい評者として見守ってくれていた」と西沢を回想する(『建築手法』)。要するに「町屋」発コルビュジエ経由「塔の家」「住吉の長屋」ということなのだが、植田さんの度重なる「大阪あるいは関西圏」という指摘は、建築家の思考が地域に積層する住文化にふれスパークした瞬間に感じ入ってのことだったにちがいない。

住居とは、都市とともに揺れ動くほかないユニテである。都市そのものも他の都市を、自然を、さらには諸力の集中・拡散と変動を前提にしたエレメントである。だから町屋のように、閉じつつ、開く。「私の家」移動畳、原邸中央通路を横切る人影、「反住器」ギャラリーと階段、「GOH」飛び壁とパーゴラ、「シルバーハット」や県営保田窪団地の中庭、「DECO」ガラス張りの和室、野地邸アルコーブ、「H」「星龍庵」上階グレーチングの床、等々。「持続」の諸相、といってもいい。「屋」にもうひとつの「町」がある。「町」に「屋」があるように。「屋」が集まって「町」であるように。
住宅設計において現代の、ことに戦後日本の建築家たちは、時代のきしみを精神科医よろしく聴き取りながら、都市に対して半ば閉じつつも半ば開くすべを、それぞれの流儀で、さまざまに試みてきた。住居の概念を限界にまで押し広げ、分解はもちろん、ときに崩壊させ、あわよくば異界を開き出そうとしたもくろみすらある。そのひとつひとつの達成をポジティブに掬い上げること。それこそ「都市住宅という言葉のもつある輝き」に魅入られつつ、植田実が一貫してみずからに課してきた姿勢であり仕事といえるのではないか。本書はその40年間にわたるドキュメントである。


毛綱毅曠「反住器」(写真・植田実)


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