みすず書房

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『シャルロット・ペリアン自伝』

北代美和子訳

朝香宮鳩彦王が1925年のパリ万博(通称アールデコ博)に足繁く通ったことはよく知られている。帰国後、高輪から白金に居を移し、自邸を新築するにあたって、万博メイン施設を手がけたアンリ・ラパンにインテリアデザインを依頼した。1933年竣工の現・東京都庭園美術館である。いまでも展示物の合間を縫って真正アールデコの逸品を堪能できるが、シャルロット・ペリアンは、パリの装飾芸術中央連盟付属学校で教鞭をとるラパンの生徒のひとりだった。
学生ながらアールデコ博に小品を出展する機会を得たペリアン、いざ会場に出かけてル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレのエスプリ・ヌーヴォー館を覗いたさいの印象を、こんなふうに綴っている。「あまりにも簡素で、軽蔑されたようにひと隅に追いやられていた。それは私を驚かせたが、動揺はさせなかった」
微妙な表現だけれど、要するにぱっとしなかったということだろう。リビングにはもちろん、まだル・コルビュジエ名義の椅子はなく、トーネットの曲木椅子が置かれていた。だが、ペリアンはそれから2年後の1927年、「メディア・アーキテクト」ル・コルビュジエに魅了され、セーヴル街のアトリエに入所する。翌年早々には一連の名作家具を完成させ、およそ10年間ル・コルビュジエのスタッフとして働きつづけるのである。成熟期アールデコの果実からモダニズムの最前線へ、彼女は一気に駆け上がっていた。まさしくデザインとは、無からの創造ではなく「選択」と「総合」の結果である。本書を読めば、ごく自然なプロセスだったとも実感できる。

そこでふと思うのだが、もしアールデコ博での鳩彦王のお気に入りがへそ曲がりにもエスプリ・ヌーヴォー館だったとしたら、どうだろう? そのばあい上野の国立西洋美術館に先立つこと4半世紀、軽井沢のアントニン・レーモンド「夏の家」(エラズリス邸木造ヴァージョン)と同じ年、東京のまんなかでル・コルビュジエ建築が立ち上がっていたはずだ。おそらくはサヴォア邸風。屋上庭園、ピロティはむろんのこと、車寄せはピロティ内に取り込まれ、重厚な階段は軽やかな螺旋状となり、ゆるやかなスロープも屋内に設置されたにちがいない。
施工管理には宮内省内匠寮営繕課の人々にまじって、当時レーモンド事務所にいた前川國男がひんぱんに顔を出す。そして当然ながらインテリアの責任者はラパンの教え子ペリアンそのひとであり、あるいは彼女の来日が10年早まったばかりか、新たなLCシリーズが後世に残されたかもしれない。朝香宮邸でもっともモダンな空間、ガラス張りの2階南面サンルームには、鳩彦王自身のセレクションによってマルセル・ブロイヤーのスチールパイプ椅子が並べられていた。つまりはル・コルビュジエがバウハウスにとってかわるだけだから、けっしてばかげてもない空想……?
白金の冬の青空の下、白黒市松模様の大理石の床の上、思い思いにシェーズロング(LC4)に寝そべってくつろぐ宮一家。つい先日、ひさしぶりに訪れたその場所で思い浮かべたイメージは、なんだか妙に生々しかった。

* 20世紀デザイン史をまるごと生きぬいたシャルロット・ペリアンの長い「創造の人生」。じっくり味読いただければさいわいです。


ペリアンとシェーズロング
(本書37ページより)


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