みすず書房

トピックス

『ヴァレリー詩集 コロナ/コロニラ』

松田浩則・中井久夫 共訳

小社ではポール・ヴァレリー没後50年にあたる1995年に中井久夫訳による『若きパルク/魅惑』を(その後同書の改訂普及版を2003年に刊行)、そして没後65年の今年、本書を出版することになった。別に記念年を意識したわけではないが、『若きパルク/魅惑』刊行がひとつのきっかけとなって、それまで20年ほどほぼお蔵状態にあった日本でのポール・ヴァレリーの存在にふたたび光が当てられるようになった。岩波文庫でのヴァレリー作品の新訳、平凡社ライブラリーでの『ヴァレリー・セレクション』(上下)をはじめ、今年3月には岩波新書で清水徹『ヴァレリー――知性と感性の相剋』も刊行された(同書には本書『コロナ/コロニラ』について一章が割かれている)。近く新しいヴァレリー全集が刊行開始だともきく。そのようななかで、今回はじめて公刊された『コロナ/コロニラ』とは、いったいどのような作品なのか。

『コロナ』と『コロニラ』という二つの詩篇は、ヴァレリーが最後の恋人ジャン・ヴォワリエことジャンヌ・ロヴィトンに頻繁に書き送っていた手紙に同封されていた詩を取りまとめたもので、ヴァレリー自身が二つの詩篇のタイトルや選択や編成を考えていた。その後の二人の破局と直後のヴァレリーの死によって眠っていたこの詩篇の存在が明らかになるのは、それから三十数年後のことである。ジャンヌはこの二つの詩篇を競売にかけ、『コロナ』草稿23篇は1979年にスイス人愛好家が、『コロニラ』草稿133篇は1982年に慶應義塾大学が落札した。しかし、これらの競売は出版には結びつかなかった。二人の愛の関係を濃密に描いたものも多いこれらの詩篇の公刊について、ヴァレリーの遺族が難色をしめしたからである。

それから二十数年がたった2008年11月に、パリのファロワ社から『コロナ』と『コロニラ』が一冊の本にまとめられて出版されたときには、衝撃が走った。「今日、稀有にして貴重な物質を大量に含んだ隕石が文学の空から落下してきた」(『リベラシオン』紙)。しかし、この本の編者の文章を読んでも、どのような基準と経緯で未完の詩集のはずのこれら二篇を入手し編集したのかには触れられていない。

一方、少なくともその数年前から、パリのフランス国立図書館の草稿部には、マイクロフィルムの形で、これらの詩の草稿は読める状態におかれていた。しかし、たとえばある詩篇には複数の手書き草稿があったり、別の詩篇はヴァレリー自身の手でタイプ打ちされ、その上に手書きの文字で修正がほどこされているものもあり、全体として、国立図書館所蔵の草稿はファロワ版のものとかなり違っているらしい。また、本書に収録した「自分自身への手紙」には、『コロナ』の詩篇をヴァレリーがいとおしむように再読している様子がリアルに出ているが、その詩篇は国立図書館所蔵の詩篇ともファロワ版の詩篇とも微妙にずれている。第三の『コロナ』草稿が存在したということだろうか。

あとは推測と謎である。(1)ジャンヌの手元にあった詩篇を競売にかけるさい、『コロナ』『コロニラ』への収録をヴァレリーが考えていた以外の詩篇もジャンヌが加えていた可能性、(2)ヴァレリーの手元には、ジャンヌに書き送った詩篇の写しがあって、それらにさまざまなかたちで手を加えていた可能性、そしてパリの国立図書館にあるのは、(2)の草稿類にほぼ相当し、ヴァレリーが死の直前まで考えていた構想に近いものであること、ファロワ版は、なんらかのかたちで(1)に近いものを入手して成ったものではないか、ということである。それ以上はわからない。

本書は、これらの経緯をすべて踏まえ、フランス国立図書館の資料を基準としながら、必要に応じてファロワ版を参照して翻訳をすすめたものである。『コロナ』23篇は全篇を、『コロニラ』については、全133篇のうち、詩の面白みや完成度などを考慮して21篇を訳出した。以上記したことの詳細については、本書冒頭に掲げた松田浩則による「ヴァレリーあるいは黄昏時の優しさ」を読んでいただきたいと思う。

先日、三田にある慶應義塾大学図書館をたずね、ジャンヌの手元にあった『コロニラ』草稿133篇の現物をみせていただいた。ご遺族との約束で長年のあいだ封印されていたこれらの草稿について、そろそろ「封印を解く」時期だと判断した同図書館は、昨年の丸善ギャラリーでの展示会につづき、この7月に出る『三田文学』を皮切りに、『コロニラ』草稿133篇の翻訳をはじめとした研究に本腰を入れられるという。

本書をめぐっては、さまざまな物語が存在するのだ。




その他のトピックス