みすず書房

「一億一心」「一億火玉」、最後は「一億玉砕」——第二次大戦中の日本は、この種の政治的スローガンに覆いつくされていた。しかし社会の内実は、無秩序、緊張、混乱にみちていたのだ。『昭和』の一つのテーマは、具体的にどこでどんな混乱が起きていたのかを明らかにすること。
そして昭和全般を見渡すと、日本の進路を規定したのはつねにアメリカとの関係だったといっても過言ではない。とくに戦後は「アメリカに黙々と付き従い、利益にはなったが、神経も擦りへらした。この両義的な遺産に目を向けなければ、現在の日米間に存在する緊張は理解できない」。しかも、太平洋を挟んで渦巻いた「恐怖と偏見」は、一方通行ではなく双方向だった。日米の風刺漫画を並べた章で、それがみごとに論証されている。
最初の論文「役に立った戦争」は本全体のトーンを決める重要な一編だ。戦後日本の社会構造が、政治的にも経済的にも、戦時の組織と人を大幅に引き継いだこと、そしてこの連続性に注目しないと、現代日本の抱える問題の本質はやはり見えてこないことを力説する。
ベストセラー『敗北を抱きしめて』は、敗戦という激変を、庶民の一人一人がどう受けとめ、文字通り「抱きしめた」のかをめぐる物語だった。『昭和』のテーマは、この激変の底流をなした「連続性」である。
史料と虚心に向き合い、「何を問うべきか」を熟知した歴史家の論文、エッセイ、そして「グラフィック・エッセイ」の選集。

目次

日本語版まえがき
まえがき

1 役に立った戦争
2 日本映画、戦争へ行く
3 「ニ号研究」と「F号研究」——日本の戦時原爆研究
4 造言飛語・不穏落書・特高警察の悪夢
5 占領下の日本とアジアにおける冷戦
6 吉田茂の史的評価
7 日本人画家と原爆
8 ふたつの文化における人種、言語、戦争
9 他者を描く/自己を描く——戦時と平時の風刺漫画
10  日米関係における恐怖と偏見
11  補論——昭和天皇の死についての二論
  戦争と平和のなかの天皇——欧米からの観察
  過去、現在、そして未来としての昭和

監訳者あとがき
参照文献
索引

加藤陽子 書評エッセイ「歴史の複雑さに斬りこむ人」

「半年のうちに世相は変った」と書いたのは坂口安吾『堕落論』だったが、世界金融危機が顕在化した一昨年の秋以降、街中の本屋の書棚をうめる歴史書のトーンが変ったように感じられる。近隣諸国への根拠のない優越感に支えられた歴史修正主義の本が減った。かわりに、『もういちど読む山川日本史』(山川出版社)や『大人のための近現代史 19世紀編』(東京大学出版会)など、学びなおしの教科書の体裁をとった本が並べられるようになり、実際のところこれらの本は売れている。大不況の深刻化が誰の目にも明らかとなり、耳に心地よい叙述によって溜飲を下げている場合ではなく、本当のことを一から勉強しなおさねば、といった危機感が人々の心に生じたからなのだろう。

このような傾向は、私の心を少しだけ明るくする。刺激的なタイトルをつけた歴史修正主義の本の隆盛を本屋で目にするたび、これまでは、ジョージ・F・ケナン『アメリカ外交50年』の次のことばをおまじないのようにして心の中でつぶやいていた。いわく、「短慮と憎悪に基く意見は、常に最も粗野な安っぽいシンボルの助けをかりることが出来るが、節度ある意見というものは、感情的なものに比べて複雑な理由に基いており、説明することが困難なような理由に基いている」からである、と。そう、歴史は複雑なのだ。だが、歴史は複雑と繰りかえすだけでは、人々は納得しない。相対性理論の画期性を一言で説明しろと人は決していわないが、太平洋戦争が避けられなかった理由を一言で説明しろとは平気でいう。このような時、ケナンの次に私の脳内に呼びこまれるのがジョン・W・ダワーだった。

『吉田茂とその時代』『容赦なき戦争』『敗北を抱きしめて』に続き、今回、待望の邦訳が完成した。1993年に出版された論文集Japan in War & Peaceの全訳が『昭和 戦争と平和の日本』にほかならない。ダワーは本書「日本語版まえがき」の冒頭に、「歴史」と聞いてどのような一語を想い浮かべるかとインタビューで問われたエピソードを置く。予期せぬ質問にいささかうろたえつつも、歴史とは複雑さ(complexity)であり、歴史家とは複雑さの中からパターンを探しだす人だとの答えを与えている。複雑さの中のパターン(patterns in complexity)。英語にしてわずか三語のためにダワーが投入した作業量と分析視角の鋭さは、これまでの著作と同様、期待を裏切らない。

11の章から成っている。ダワーは昭和という時代を、善きにつけ悪しきにつけ、アメリカとの関係によって規定されていた(「まえがき」)と喝破する。そのうえで、敗戦までの15年間を、近代日本にとっての逸脱と捉えるのはまちがいで、戦時動員が戦後の高度成長全般に及ぼした影響、官僚とテクノクラートの人的連続性などに注目すれば、戦争は遺産をも日本人にもたらしたのだ、と怜悧に指摘する(「1 役に立った戦争」)。

複雑さの中にパターンを見る際には、映画や諷刺漫画は最も好ましい対象となろう。日本の戦意発揚映画は意外にも、戦争自体を「究極の敵」として描くものが多かった。よって、いったん平和となれば、すぐさま反軍国主義的映画が量産可能であったことを推測させる。いっぽうで、戦争自体を敵として描き、日本人の自己犠牲や純潔を中心的なテーマとして描いたことで、戦争を起し日本を巻き込んだのは敵側である、との根深い被害者意識も生むことになった(「2 日本映画、戦争へ行く」)。返す刀でダワーはアメリカが日本人に対して抱いてきた、戦前から戦後にわたる偏向ぶりをも容赦なくあぶりだす(「8 ふたつの文化における人種、言語、戦争」「9 他者を描く/自己を描く」)。映画や諷刺画だけではなかった。アメリカ側の日本への偏見は、資本主義観・経営観にも及んでいたのである(「10 日米関係における恐怖と偏見」)。

私が最も面白く感じたのは「4 造言飛語・不穏落書・特高警察の悪夢」である。ダワーの依拠した「特高月報」は、官憲の史料という制約はあるものの、戦時下の国民の動態を把握するのに最適なのはまちがいない。戦時中であっても労働争議や小作争議は起こりつづけ、不敬事件も少なからず起きていた。ダワーは、電信柱や工場の壁に書かれた落書を丹念に追っているが、この部分は本書の白眉だろう。虐げられた人々の言葉の力強さにうたれる。最後になったが、翻訳の途上で惜しくも急逝された鈴木俊彦氏、また鈴木氏のあとを見事引継いで監訳の労をとられた明田川融氏に深く敬意を表したい。

(かとう・ようこ 日本近代史)
copyright Kato Yoko 2010
(初出は『出版ダイジェスト』みすず書房特集版No. 58、2010年3月10日発行号です)

書評情報

姜尚中(東大教授・政治思想史)
朝日新聞2010年4月4日(日)
岩瀬達哉(ノンフィクション作家)
週刊ポスト2010年4月2日号
PRESIDENT
2010年4月12日号
保阪正康(ノンフィクション作家)
週刊現代2010年5月8・15日合併号
吉田裕(大学教授・近代史)
東京新聞2010年4月11日(日)
五十嵐暁郎(立教大教授)
沖縄タイムス2010年4月24日(土)
五十嵐暁郎(立教大教授)
信濃毎日新聞2010年5月2日(日)
橋本進
ジャーナリスト第627号(2010年6月25日)
上毛新聞
2010年4月25日(日)
五石敬路(東京市政調査会主任研究員)
都市問題2010年8月号
井竿富雄(近代日本政治外交史)
図書新聞2010年8月14日(土)
姜尚中(東京大学教授)
朝日新聞「今年の3点」2010年12月19日(日)
成田龍一
UP2010年8月号(№ 454)
成田龍一(日本女子大学教授・近代史)
北海道新聞2010年4月25日(日)