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ジョン・W・ダワー『昭和』

戦争と平和の日本 明田川融監訳

2月下旬刊行のジョン・ダワー『昭和』が好評をもって迎えられ、たちまち重版3刷です。
著書『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)など幅広く読まれ、新聞雑誌の書評欄でも活躍めざましい加藤陽子氏(東京大学大学院人文社会系研究科教授)に、明晰にしてすばらしい書評エッセイをお寄せいただきました。

歴史の複雑さに斬りこむ人

加藤陽子

「半年のうちに世相は変った」と書いたのは坂口安吾『堕落論』だったが、世界金融危機が顕在化した一昨年の秋以降、街中の本屋の書棚をうめる歴史書のトーンが変ったように感じられる。近隣諸国への根拠のない優越感に支えられた歴史修正主義の本が減った。かわりに、『もういちど読む山川日本史』(山川出版社)や『大人のための近現代史 19世紀編』(東京大学出版会)など、学びなおしの教科書の体裁をとった本が並べられるようになり、実際のところこれらの本は売れている。大不況の深刻化が誰の目にも明らかとなり、耳に心地よい叙述によって溜飲を下げている場合ではなく、本当のことを一から勉強しなおさねば、といった危機感が人々の心に生じたからなのだろう。

このような傾向は、私の心を少しだけ明るくする。刺激的なタイトルをつけた歴史修正主義の本の隆盛を本屋で目にするたび、これまでは、ジョージ・F・ケナン『アメリカ外交50年』の次のことばをおまじないのようにして心の中でつぶやいていた。いわく、「短慮と憎悪に基く意見は、常に最も粗野な安っぽいシンボルの助けをかりることが出来るが、節度ある意見というものは、感情的なものに比べて複雑な理由に基いており、説明することが困難なような理由に基いている」からである、と。そう、歴史は複雑なのだ。だが、歴史は複雑と繰りかえすだけでは、人々は納得しない。相対性理論の画期性を一言で説明しろと人は決していわないが、太平洋戦争が避けられなかった理由を一言で説明しろとは平気でいう。このような時、ケナンの次に私の脳内に呼びこまれるのがジョン・W・ダワーだった。

『吉田茂とその時代』『容赦なき戦争』『敗北を抱きしめて』に続き、今回、待望の邦訳が完成した。1993年に出版された論文集Japan in War & Peaceの全訳が『昭和 戦争と平和の日本』にほかならない。ダワーは本書「日本語版まえがき」の冒頭に、「歴史」と聞いてどのような一語を想い浮かべるかとインタビューで問われたエピソードを置く。予期せぬ質問にいささかうろたえつつも、歴史とは複雑さ(complexity)であり、歴史家とは複雑さの中からパターンを探しだす人だとの答えを与えている。複雑さの中のパターン(patterns in complexity)。英語にしてわずか三語のためにダワーが投入した作業量と分析視角の鋭さは、これまでの著作と同様、期待を裏切らない。

11の章から成っている。ダワーは昭和という時代を、善きにつけ悪しきにつけ、アメリカとの関係によって規定されていた(「まえがき」)と喝破する。そのうえで、敗戦までの15年間を、近代日本にとっての逸脱と捉えるのはまちがいで、戦時動員が戦後の高度成長全般に及ぼした影響、官僚とテクノクラートの人的連続性などに注目すれば、戦争は遺産をも日本人にもたらしたのだ、と怜悧に指摘する(「1 役に立った戦争」)。

複雑さの中にパターンを見る際には、映画や諷刺漫画は最も好ましい対象となろう。日本の戦意発揚映画は意外にも、戦争自体を「究極の敵」として描くものが多かった。よって、いったん平和となれば、すぐさま反軍国主義的映画が量産可能であったことを推測させる。いっぽうで、戦争自体を敵として描き、日本人の自己犠牲や純潔を中心的なテーマとして描いたことで、戦争を起し日本を巻き込んだのは敵側である、との根深い被害者意識も生むことになった(「2 日本映画、戦争へ行く」)。返す刀でダワーはアメリカが日本人に対して抱いてきた、戦前から戦後にわたる偏向ぶりをも容赦なくあぶりだす(「8 ふたつの文化における人種、言語、戦争」「9 他者を描く/自己を描く」)。映画や諷刺画だけではなかった。アメリカ側の日本への偏見は、資本主義観・経営観にも及んでいたのである(「10 日米関係における恐怖と偏見」)。

私が最も面白く感じたのは「4 造言飛語・不穏落書・特高警察の悪夢」である。ダワーの依拠した「特高月報」は、官憲の史料という制約はあるものの、戦時下の国民の動態を把握するのに最適なのはまちがいない。戦時中であっても労働争議や小作争議は起こりつづけ、不敬事件も少なからず起きていた。ダワーは、電信柱や工場の壁に書かれた落書を丹念に追っているが、この部分は本書の白眉だろう。虐げられた人々の言葉の力強さにうたれる。最後になったが、翻訳の途上で惜しくも急逝された鈴木俊彦氏、また鈴木氏のあとを見事引継いで監訳の労をとられた明田川融氏に深く敬意を表したい。

(かとう・ようこ 日本近代史)
Copyright Yoko Kato 2010

(初出は、社団法人出版梓会発行の出版情報紙『出版ダイジェスト』みすず書房特集版No. 58、2010年3月10日発行号です。同紙は2011年10月21日号をもちまして終刊となりました)




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