みすず書房

「わたしがいつかもはやこの世にいなくなったとき、わたしの霊は自分が一生涯のあいだ崇拝し、探し求めて、そのために自分のすべての信仰を捧げてきたもののうちに入り込んでゆく。朝はわたしとともに夕暮れとなり、暗闇は新しい一日の再生となるだろう。わたしは下げ潮となって深海を探索し、満ち潮の再来のためにひとつの波になろう」(1922年の草稿「変容」より)。
ジルベール・クラヴェル(1883-1927)。幼少期の結核が元で宿痾をかかえたジルベールは、イタリア未来派の演劇活動、『自殺協会』と題された幻想小説、そして南イタリアはポジターノの岩礁を爆破し穿孔して建てた洞窟住居と、セイレーンの歌声が響く神話の古層を求めて、44年の短い生涯を駆けぬけた。

「エジプト旅行によって古典古代よりもさらに古い古代に触れ、バレエ・リュスや未来派の経験を経て芸術の前衛を知ったクラヴェルは、塔を拠点に岩窟住居を造りつづけることにより、ポジターノの岩壁に暴力的に介入しながら、風雨に晒される、自然の四大との緊密な交感の場こそを切り開こうとした。(…)頽廃の美を食い破って〈岩石妄想〉が噴出したのである。そこには通底する〈もの狂い〉があった。クラヴェルの建築は、クラヴェルの魂であり霊であるような“もの”を包み込んでいる」。

バーゼル、マッジャ、ローマ、ポジターノなど、スイスとイタリアの各地に分散した遺稿や資料を可能なかぎりすべて調査して、この知られざる特異な作家/建築家の生涯と妄執を辿り直した、世界でも初めての評伝である。

目次



I メタモルフォーゼ
第一章 死の舞踏(1902-07年)
骸(むくろ)としての肉体
「教会開基祭における死」
「死の表現に関するノート」
『中欧月刊誌』の創刊と挫折
イタリアへ

第二章 放蕩者たちの島(1907-11年)
カプリ島滞在の開始
フェルセン伯爵とヴィラ・リュシス
ミトラス教の祭儀
アフリカ、アーシア

アーシア断章──日記と手紙から…

第三章 オリエントへ(1911-14年)
病の哲学、ポンペイ、そして、エジプトへ
エジプト旅行
「わが領土」への帰還
エジプト再訪 1
エジプト再訪 2

II アヴァンギャルド
第四章 エキセントリック(1914-17年)
世界大戦下イタリアのアウトサイダー
『自殺協会』

第五章 未来派(1917-18年)
バレエ・リュスの衝撃、デペロとの出会い
イタリア語版『自殺協会』
「造形的バレエ」の上演

第六章 メタフィジカ(1918-20年)
『造形的価値』への寄稿 1──「ピカソとキュビスム」
ロベルト・ロンギによる展評
『造形的価値』への寄稿 2──「造形的演劇」
『造形的価値』への寄稿 3──「エジプトの表現」

III ミステリウム
第七章 塔と洞窟(1920-23年)
セイレーンの群島
「欠けたピラミッド」の改修
カプリ島景観会議
洞窟住居の着工
洞窟住居の拡張

第八章 友と敵(1923-25年)
フェルセンの死
家宅捜索の顛末
大地の暴力のもとで
「世界で最も奇妙な家」
友人たちの来訪

第九章 睾丸と卵(1925-27年)
巨大洞窟の発見
「岩石妄想」
ダイモーンに駆られて
肉体と建築の複視
最後の手紙
卵母セイレーン
半陰陽の空間
死シテノチ(postmortem)
二つの鍵


ジルベール・クラヴェル略年譜

「幻視のスイス」展カタログ所収の書簡一覧
書誌
図版一覧
人名/神名/作品名 索引

編集者からひとこと

——すべてはハラルト・ゼーマンhttp://en.wikipedia.org/wiki/Harald_Szeemannによる「幻視のスイス」展(1992年、デュッセルドルフ)に始まります。その当時ドイツに留学していた田中純さんは、「ドクメンタ」や「総合芸術作品への志向」展などで知られるユニークなキュレーターであったゼーマンに惹かれて、この展覧会に足を運びました。それから20年、あたかも2005年に亡くなったゼーマンの妄執(オブセッション)が田中さんに憑依したかのように、本書の企図はゆっくりと醸成されていったのです。

「幻視のスイス」展のカタログを見てみると、アルノルト・ベックリンやパウル・クレーのような著名な画家から、ジルベール・クラヴェルのような無名の作家まで、総勢55名のスイスにゆかりのあるアーティストが取り上げられていたことがわかります。それにしても、出展者55名の簡単な紹介にくらべて、巻末の30ページにもおよぶ「ジルベール・クラヴェル 手紙でたどるその人生の軌跡」という章の構成が異様です。実際の展覧会がどうであったかはともかく、少なくともこのカタログは、まるでクラヴェルその人を世に知らしめるために作られたかのようです。

さて、そのクラヴェルとは何者か。なぜクラヴェルなのか。そんな本書の企図については、田中純さんが本書に先行して『SITE ZERO/ZERO SITE』3号(2010年)に発表した、ほとんど本書のイントロダクションとも言える以下の論考をご覧ください。

http://before-and-afterimages.jp/news2009/SirenTanaka01.pdf

この世界初の評伝を編集し終えて、思うことが二つあります。ひとつは、生前に『自殺協会』1冊を自費出版したにすぎない無名作家、そして洞窟住居とはいえあくまで私邸をセルフ・ビルドしたにすぎない素人建築家の、日記や手紙や遺稿までが、公文書館や財団図書室にきちんと保管されているという、ヨーロッパのアーカイヴの底知れぬ豊かさ。

もうひとつは、クラヴェルのたゆまぬ創作を突き動かしたイメージの原型です。44年という短い人生のほぼ後半生を、岩壁に通路を穿ち、居室を刳りぬくことに費やしたとなれば、やはりこの人はどうみても奇人変人でしょう。33年をかけてたった一人で理想の宮殿を建てた郵便配達夫フェルディナン・シュヴァルや、誰にも知られることなく『非現実の王国で』と呼ばれる物語や絵を書きつづけたヘンリー・ダーガーが思い浮かびます。ではクラヴェルは、シュヴァルやダーガーのようないわゆるアウトサイダーなのでしょうか。『自殺協会』や洞窟住居はひとつの症例で、病跡学の対象となりうるものなのでしょうか。

どうもそうではない気がします。クラヴェルを捉えた神話的なオブセッションは、あくまで個人のうちに完結した徴候というよりは、はるか古代から人類が受け継いできた、精神のかたちのように思われるのです。本書を通読したあと、あなたにもクラヴェルのオブセッションが憑依するとしたら……、さああなたはつぎに何をするのでしょうか。

書評情報

持田叙子
毎日新聞2013年2月24日(日)
谷川渥(國學院大學教授)
日本経済新聞2013年2月10日(日)
岡田温司
読売新聞「2013年の3冊」2013年12月22日

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