みすず書房

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田中純『冥府の建築家』

ジルベール・クラヴェル伝

未来派演劇の監督、小説『自殺協会』の作家、洞窟住居の建築家。アヴァンギャルドにして古代神話の探究者。知られざる芸術家、世界初の評伝。

クラヴェルとは何者か。
なぜクラヴェルなのか。


――すべてはハラルト・ゼーマンhttp://en.wikipedia.org/wiki/Harald_Szeemannによる「幻視のスイス」展(1992年、デュッセルドルフ)に始まります。その当時ドイツに留学していた田中純さんは、「ドクメンタ」や「総合芸術作品への志向」展などで知られるユニークなキュレーターであったゼーマンに惹かれて、この展覧会に足を運びました。それから20年、あたかも2005年に亡くなったゼーマンの妄執(オブセッション)が田中さんに憑依したかのように、本書の企図はゆっくりと醸成されていったのです。

「幻視のスイス」展のカタログを見てみると、アルノルト・ベックリンやパウル・クレーのような著名な画家から、ジルベール・クラヴェルのような無名の作家まで、総勢55名のスイスにゆかりのあるアーティストが取り上げられていたことがわかります。それにしても、出展者55名の簡単な紹介にくらべて、巻末の30ページにもおよぶ「ジルベール・クラヴェル 手紙でたどるその人生の軌跡」という章の構成が異様です。実際の展覧会がどうであったかはともかく、少なくともこのカタログは、まるでクラヴェルその人を世に知らしめるために作られたかのようです。

さて、そのクラヴェルとは何者か。なぜクラヴェルなのか。そんな本書の企図については、田中純さんが本書に先行して『SITE ZERO/ZERO SITE』3号(2010年)に発表した、ほとんど本書のイントロダクションとも言える以下の論考をご覧ください。
http://before-and-afterimages.jp/news2009/SirenTanaka01.pdf

この世界初の評伝を編集し終えて、思うことが二つあります。ひとつは、生前に『自殺協会』1冊を自費出版したにすぎない無名作家、そして洞窟住居とはいえあくまで私邸をセルフ・ビルドしたにすぎない素人建築家の、日記や手紙や遺稿までが、公文書館や財団図書室にきちんと保管されているという、ヨーロッパのアーカイヴの底知れぬ豊かさ。

もうひとつは、クラヴェルのたゆまぬ創作を突き動かしたイメージの原型です。44年という短い人生のほぼ後半生を、岩壁に通路を穿ち、居室を刳りぬくことに費やしたとなれば、やはりこの人はどうみても奇人変人でしょう。33年をかけてたった一人で理想の宮殿を建てた郵便配達夫フェルディナン・シュヴァルや、誰にも知られることなく『非現実の王国で』と呼ばれる物語や絵を書きつづけたヘンリー・ダーガーが思い浮かびます。ではクラヴェルは、シュヴァルやダーガーのようないわゆるアウトサイダーなのでしょうか。『自殺協会』や洞窟住居はひとつの症例で、病跡学の対象となりうるものなのでしょうか。

どうもそうではない気がします。クラヴェルを捉えた神話的なオブセッションは、あくまで個人のうちに完結した徴候というよりは、はるか古代から人類が受け継いできた、精神のかたちのように思われるのです。本書を通読したあと、あなたにもクラヴェルのオブセッションが憑依するとしたら……、さああなたはつぎに何をするのでしょうか。




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