みすず書房

被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。私たちの心の奥底には、浮上すれば病的症状となるような漠然とした被害者意識が潜在しているかもしれない。その昇華ということもありうる。
社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。
(「トラウマとその治療経験」2000)

被害者と同時に加害者理解を進めることも忘れてはなるまい。これは車の両輪である。「極悪非道」や「心の闇」で片づけて済むことではない。ある女性弁護士は「罪状を争わない事件では被告が納得して刑に服せる内容の判決を得るように努力する」と基本方針を語り、私はこの考え方に共鳴して共に働いたことがある。そのような判決文をかちとることはきわめて「治療的」だと私は思う。さもなくば、せっかくの服役が稔らず、出所後の再犯率が高いであろう。
(「ある家裁調査官と一精神科医」2002)

災害によるトラウマをたどり、そこから他者の心の傷への共感が生まれる可能性を説いた表題作他「トラウマとその治療経験」等31編。

目次

本棚一つの詩集たち
岐阜病院の思い出
須賀敦子さんの思い出
気骨ある明治人の人生——父方祖父のこと
もう一人の祖父のこと
私の人生の中の本
「祈り」を込めない処方は効かない(?)——アンケートへの答え
文化変容の波頭——米国で続発する大量殺人の背景
いろいろずきん考
宮本忠雄先生追悼
災害と日本人
親密性と安全性と家計の共有性と
神戸の含み資産
『分裂病と人類』について
災害被害者が差別されるとき
トラウマとその治療経験——外傷性障害私見
「起承転結」と「起承“承”結」——日米文化の深い溝
校正について
阪神間の文化と須賀敦子
犯罪の減少と少年事件
霜山先生のお弟子さんたち
秘密結社員みたいに、こっそり
安克昌先生を悼む
二十世紀を送る
一精神科医の回顧
ある回顧
精神科医の精神健康の治療的意義
高学歴初犯の二例
多田智満子訳『サン=ジョン・ペルス詩集』との出会い
ある家裁調査官と一精神科医——藤川洋子『「非行」は語る——家裁調査官の事例ファイル』
医学・精神医学・精神療法は科学か

解説7  最相葉月
掲載文・書誌一覧