みすず書房

関口時正『ポーランドと他者』

文化・レトリック・地図

2014.10.27

本書「あとがき」より

「ポーランド防壁論」に本格的に触れたのは、1974年10月から76年の7月までポーランドに留学した時だった。本格的にというのは、身をもって体験したというような意味合いで。社会主義国時代のポーランドでは、西洋と東洋あるいはヨーロッパとアジアという、今でもいたるところにはびこるステレオタイプの二元的世界像とは別に、政治経済体制上の西側世界と東側世界というもう一つの「西・東」という、いたって紛らわしい言葉遣いも重なって言語を支配していた。だから日本から来た私がポーランド人に対して示していた他者性は大きくねじれていた。西側世界から来た東方の人間ということである。当時多かったヴェトナムやモンゴル、あるいは北朝鮮からの留学生とは決定的に違う、ポーランド人からすれば対処の仕方がよくわからない、扱い慣れない外人として、私は彼らからポーランド語を学び、彼らと議論しつづけた。ねじれは、私が米ドルを持っていたということよりも、たとえば当時はまだ禁書であって一般のポーランド人が読めなかったゴンブローヴィチのテクストを、翻訳ではあってもすでに知っていて、読んだ上でポーランドにやって来たというようなこととか、精神のかなりの部分をヨーロッパやアメリカの文化によって形成された人間であるというようなことにむしろ顕著にあらわれた。そのようにどちらかといえば珍しいバックグラウンドを持つ他者として、留学時代に私がポーランド人と始めた対話は、その後もずっとつづいている。

帰国後しばらくして大学教師になった私は、「ヨーロッパ概念、アジア概念の形成」といったような授業を一般向けの講義などで、途中からは――正確に言えば1991年から――東京外国語大学に新しくできたポーランド専攻という場所で「ポーランド人の自画像、他画像」「ポーランド防壁論」「ポーランドを巡る言説――19世紀ヨーロッパ」といった題名の授業をポーランド文化に関心を抱く特定の人々に向かってし始め、退職するまでほぼずっと、少しずつ更新しながら繰り返し、34年間つづけてきた。にもかかわらず、そんな講義題目をそのまま題名として冠することのできるようなまとまった文章はついに書かなかった。あまりに大きなテーマなので、とても収拾がつかないだろうと思いつづけてきたのだった。(後略)

長年にわたりポーランド文学・文化の研究を続ける著者。これまでに書かれた文章は精選して本書に収められました。しかし、ほぼ同時に刊行されたアダム・ミツキェーヴィチの第一詩集『バラードとロマンス』の翻訳を含むシリーズ「ポーランド文学古典叢書」(未知谷)を始めとして、これからのお仕事も大いに楽しみです。