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2014.04.28トピックス

和田英『富岡日記』

〈大人の本棚〉 森まゆみ解説

◇「富岡製糸場と絹産業遺産群」世界文化遺産に登録
富岡製糸場が世界文化遺産に登録される見通しとなりました。ユネスコ(国連教育科学文化機関)の諮問機関イコモス(国際記念物遺跡会議)が、「登録は適当」とユネスコに勧告したものです。
[追記]「富岡製糸場と絹産業遺産群」は2014年6月、世界文化遺産に登録されました。近代以降に建造された産業施設では、日本国内で初めての登録です。

本にはそれぞれ運命というものがある。周到な準備をして書き上げ、期待作として大部数で刊行した本が世に受け入れられず、そのうち闇に葬り去られる場合もあれば、本として刊行する意図もなく書かれたものが、ひょんな偶然から本のかたちをとり、100年を越えて生きつづけるものもある。和田英『富岡日記』は後者の典型である。

「富岡日記」原本表紙

明治40年、和田英(旧姓・横田英)は病気の母を慰めるために、それより三十数年前の明治6年、16歳のときに官営富岡製糸場の伝習工女となり、技術の習得につとめた日々のことを回想して書きあげ、おそらく読み聞かせた。富岡製糸場の伝習工女になることは、「天下のおため」であり、英は「よく身を慎み、国(信州松代)の名、家の名を落とさぬように」と親に言い含められ、まなじりを決して出立した。本書には「富国強兵と横田家の悲惨」という一章があるが、幕末から明治、英は一族の思いをつねに心にとどめ、若き日の黄金の記録を母のために書きあげたのである。

この手記のことを知った六工社(英が富岡製糸場のあと、地元松代で指導員としてはたらいた製糸場)の宮下留吉は、その記録を六工社に持ち帰り、長らく保存されていた。それから長い年月がたった昭和2年、たまたま元六工社を訪れた長野県工場課長の池田長吉が英の手記を発見し、関係者に配る目的で完全復刻のかたちで「労働福利資料第四号 器械製糸の起り――信州松代における」を刊行、それがきっかけとなり、その4年後の昭和6年に、長野県の教員であった池田忠が『信濃教育』2月号に「和田英子女史の手記」を発表する。これが好評を博し、同年9月、『富岡日記』という表題のもと、さまざまな編集を加えて、英の手記は古今書院から刊行され、長野県の小学生副読本として読まれることになった。しかし、『富岡日記』の存在は長野県外ではほとんど知られないまま、また長い月日が流れる。

『富岡日記』が全国に広まるのは戦後、それも1960年代半ばのことであった。『富岡日記――富岡入場略記・六工社創立記』(上条宏之解説、東京法令出版、1965)の出版がきっかけとなり、明治百年ブームや女性史・民衆史への注目も手伝って、突然のごとく各版が並び立つ。和田英のこの手記は『現代日本記録全集10 日本の女性』(筑摩書房、1968)、『日本庶民生活資料集成 第12巻』(三一書房、1971)に収録された他、1973年に『富岡日記 富岡入場略記・六工社創立記』(上毛新聞社)、1976年に上条宏之氏の手による『定本 富岡日記』(創樹社)、そして1978年には『富岡日記』(中公文庫、隅谷三喜男解説)が刊行される。芝居にもなり、テレビ番組もつくられた。一時は教科書にも載ったのではなかったか。

しかし、それから30年余、『精解 富岡日記――富岡入場略記』(今井幹夫編、群馬県文化事業振興会、1999)をのぞき、和田英のこの手記はふたたび口を閉ざすことになり、現在にいたる。

昨年9月、たまたま富岡製糸場跡を訪れた。その地が世界遺産候補地になっていることも直前まで知らなかった。当時の様子をそのままとどめた場内を見学しながら、数々のキャプションに使われていた英の手記の引用に心動かされ、『富岡日記』を読もうと思ったところ、古本市場でもなかなか入手できないことを知った。そして長く読み継がれることを願い、本書を刊行したしだいである。(2011年2月)




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