みすず書房

言葉のムーサ(詩歌女神)的な始原の経験へ。アガンベンの新著

G・アガンベン『哲学とはなにか』 上村忠男訳

2017.01.26

哲学はつねにその組成からして詩の(詩という)哲学なのであり、詩はつねにもともと哲学の(哲学という)詩なのである。

(本書 「音声の経験」より)

世界への原初的な開かれは論理的なものではなくて、音楽的なものなのだ。

哲学は今日、音楽の改革としてのみ生じうる。

(本書 「付録 詩歌女神(ムーサ)の至芸──音楽と政治」より)

『神統記』によると、紀元前7世紀、やがて古代ギリシアの神々の由来を書くことになるヘシオドスは、聖なるヘリコン山(標高1,749m、現在のヴィオティア県)の麓で羊たちの世話をしていたとき、詩歌女神(ムーサ)たちから歌を授けられたという。
詩歌女神は9人いて、九夜ゼウスと結ばれたムネモシュネー(記憶の女神)から生れた。
「音楽musica」の語源になっているムーサは、アガンベンによると「どこからどこまでもすっかりニンフのような姿をした少女」であり、とりわけすばらしいと彼の言うメルポメネ(歌い手、のちには悲劇を司る女神)の像が本書のカバー写真だ。
言葉が生じる本源的な場所にはムーサ(詩歌女神)たちがいる。そして言葉の始原の場所に接近することの不可能性が音楽なのだという。
だから、歌は、言葉にできないものを伝えようとして歌われる。

2016年師走。東京・東中野。わたしはひと声聴くなり、ムーサの声かと思う唄に出会った。「けえらねえら、唄いじょうら」(石垣島の言葉で、「みなさん、唄いましょう」)というイベントで、ミサイル基地配備の波が押し寄せる八重山諸島・石垣島の声を本土に伝えるべく、歌ってくださった大田静男さんと山里節子さん。ふだんはコミュニティの外で自分たちのユンタ(唄)を歌うことはしないという。音と歌詞のはざまに、なんと力があることか!

「こいなユンタ」

(* 「こいな」は鳥名)

うふだぎぬ  くすぃなが  コーホイナー
大岳の   後方に   「マタコーホイナー」
ざらだぎぬ  すばなが  コーホイナー
ざら岳 の   側 に
ばぬぎゃーきーぬ  むやーうり、「マタコーホイナー」  かばしゃーきーぬ  むいよーり
ばぬぎゃー木が   生えていて、   香ばしい木が   生えていて
うるずぃんに  なるだーどぅ、  ばがなつぃぬ  いくだーどぅ
陽春に   なると、   若夏が   くると
ぱなや しる  さかりょうり、  なるぃや あう  くぬみょうり
花は白く   咲きなさり、   実は青く   なっており
於茂登岳(おもとだけ)山頂から於茂登連山を望む
於茂登岳の山中

西暦1500年、八重山に攻め込んだ琉球王府軍に対立してオヤケアカハチ(石垣島の豪族)の軍の先頭に立ったのは、神に仕える女性たちだった。彼女らは枝葉を振りながら呪咀を唱えた。
2017年1月末、自衛隊ミサイル基地建設に反対する石垣市民たちの総決起大会が開かれる。オープニングに先立ち、その麓に基地が建設される予定という沖縄県最高峰・於茂登岳(おもとだけ、標高525.5m)の女神を呼び出すユンタが唄われるという。
「唄の島」石垣島のムーサ、どうか力を貸してください。

詩と哲学の一致を自ら実践した本『哲学とはなにか』は、イタリアからは地球の裏側、石垣島・於茂登岳の女神への先触れともなった。
本書の最後でアガンベンは、「ムーサ的なものの経験の喪失」と一体をなす政治の任務に、芸術家と哲学者はそれぞれの力を結集して当たる必要がある、と述べている。「言葉のムーサ的な始原の経験に接近するたびに開かれる空間を思考と呼ぶ」ならば、と。
《ホモ・サケル》プロジェクトに終止符を打ったアガンベンが25年をへてふたたび取り組んだ構想、「人間の声」をめぐる新著である。