みすず書房

トピックス

川本静子『ガヴァネス』

ヴィクトリア時代の〈余った女〉たち

19世紀末の英国を舞台にしたコミック『エマ』(森薫著・エンターブレイン刊)がたいへんな人気を博したり、ヴィクトリア女王関連の新刊が相次いで刊行されるなど、ヴィクトリア時代(1837-1901)がなぜかいま静かなブームのようだ。このヴィクトリア時代を理解するのに欠かせないキーワードが「ガヴァネス」、住み込みの女家庭教師である。

19世紀の半ば頃から成人男性の植民地移住や晩婚化が進んで、英国内の男女バランスが急激に崩れ、多くの女性が結婚相手を見つけられなくなった。中流階級の女性の生きる道は結婚がすべて、結婚したら夫の庇護(従属ともいえる)のもとに客間でお喋りをしたり、ピアノを弾いたりといった有閑生活を送ることが女性のあらまほしき姿とされていたこの時代、独身女性が「レディ」の身分から転落せずに生計をたてていくのは容易ではない。唯一の職業として拓かれていたのがこの「ガヴァネス」だったのだ。
ちなみに先述したコミック『エマ』でも、主人公が仕える魅力的な女主人ケリーは若くして夫を亡くしたあと、30年余りをガヴァネスとして働き、現在は悠々自適の隠居暮らしという設定。ただ彼女の場合、老後の暮らしぶりやかつての勤め先との友好関係は、ジェイン・オースティン『エマ』のミス・テイラーと同じく、当時のガヴァネスとしてはかなり恵まれた存在といえるかもしれない。

本書第一部では、彼女たちの境遇を当時の資料をもとに詳細に明らかにしていくのだが、その薄給、こきつかわれぶりはまったく気の毒としかいいようがない。報酬はハウスキーパーとほとんどかわらず、要求されるものはあまりに多い。
ある若いガヴァネスの仕事内容は、「14歳を頭にした四人の子どもたちにフランス語、音楽、絵画、英語をそれぞれに応じて教えることと、子どもたちの衣服類に目を配ること(つぎ当てや繕いをする)」こと。ガヴァネス時代のシャーロット・ブロンテも針仕事にうんざりする手紙を妹エミリーに送っている。むろん老後の保障など何もなく、ガヴァネスの救済組織「ガヴァネス互恵協会」が募集した「50歳以上の自活できないガヴァネスに対する年金支給」には希望者が殺到したそうだ。

この「家族でもなければ、使用人でもない。職業人でもない」特異な位置づけだったガヴァネスは、ヴィクトリア時代の文学にさかんに登場する。本書第二部では、手練手管をつかい玉の輿を狙う『虚栄の市』のベッキー、「既成の秩序と規範を脅かすもの」として当時怖れられたジェイン・エア、そして大ベストセラーとなった大衆小説「イースト・リン」の不倫で出奔したが、やがてガヴァネスに変装して家庭に舞い戻るレディ・イザベルなど、8人のガヴァネス・ヒロインをとりあげた。
本書は1994年に刊行された同名書に2章をあらたに増補した決定版。英国史や英文学を理解するうえで必須のテーマだが、他に類書のないこの分野の貴重な一冊だ。




その他のトピックス