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風丸良彦『村上春樹〈訳〉短篇再読』

(『村上春樹 短篇再読』(2007)につづき、このほど『村上春樹〈訳〉短篇再読』を上梓された著者より、新著によせるエッセイをお送りいただきました)

風丸良彦

専門は現代アメリカ文学と言っておきながら、丸ごと1冊アメリカ文学の本は、デビュー作でもある『カーヴァーが死んだことなんてだあれも知らなかった――極小主義者たちの午後』(講談社、1992)以来17年ぶりになります。前著『遠野物語再読』(試論社、2008)を書いているあたりから、ずいぶん遠くへ来たものだ、としみじみ思いなし、脱稿すると矢も楯もたまらず今般の原稿に着手した。というのはもちろん、もののたとえです。

私は盛岡と東京を往復する生活を送っていますが、先日、上りの新幹線で仙台から一人のビジネスマン風の男が二列席の私の隣に乗りこんできました。車内にはまだ空席が目立っていたので、今日はツイテないと思っているうちに、車掌が検札にまわってきました。と、隣人にチケットの提示を求めるではないですか。なんだ、正規の席じゃないのか、よりによって自分の横にくるなんて、と反射的に下唇を噛むと、隣人は前の座席を指さします。後ろから見る限り、そこには窓際に年配の男がいるだけで、通路側の席は空いている。つまりそこが隣人の本来の席だったようなのですが、車掌はその座席を一瞥すると頷き、隣人を咎めようとはしませんでした。謎です。いったいどういうことなのか。とは言え、腰を上げてそれを確かめるのも失礼かと思い、身ゆるぎし、もういちど下唇を噛み、こらえました。けれどもいっぽうで、謎は深まるばかりです。

隣人が大宮で下車すると、ようやく私は前の座席に身体を乗り出しました。通路側の席には窓際に座る老人の弁当が置かれていました。食べかけのようでした。老人は仙台でもそうでしたが、熟睡しています。なるほど。隣人は、熟睡している老人を起こしたくなかったのです。大仰に脚を組んだり、懐手する腕が私の肩に触れたり、彼には露ほどの良い印象も抱いていなかったのですが、この時、文字通りがらりと彼に対する見方が変わったのは言うまでもありません。

謎を謎として放置しないこと。謎を解くことによって対象に親近感がもてることもある。これは海外文学作品を読む時のひとつの心得でもあります。そこにめくるめく世界は私たちにとって身近なものばかりではありませんから、謎は少なからずあります。原文がそもそも抱える謎もあれば、翻訳によってもたらされる謎もある。私たちは、おうおうにして、その謎をほったらかしにします。どうせ異国のことなんだから、と。しかし、その未消化な思いはもしかしたら私たちを、確実に海外文学から遠ざけていくのではないか。だとすれば、なんとかできないものか。

というのが、本書の根底にある、強いて言うところの、思想です。

純文学、ファンタジー、ポストモダン、笑劇、詩。また、男性作家、女性作家を問わない村上春樹さんの訳業は、現代アメリカ文学を縦横に読み解くのに恰好の素材を提供し続けています。さらに、本の入手が容易である。そのうえ、私自身教壇に立つ職にあるわけですが、「村上春樹」を通すと、現実問題として、若者の海外文学へのアプローチが滑らかである(私のアメリカ文学講読の授業は、所属する英語文化学科の学生ばかりでなく、日本文学科の学生も受講しています)。本書が『村上春樹〈訳〉短篇再読』と銘うって、現代アメリカ文学へのドライヴウェイを開こうとした理由は、こういったあたりにあります。

全15章の中にはちょっとした仕掛け、と言うかイタズラをほどこした章もありますので、下唇を噛まずに楽しんでいただければ、著者冥利に尽きます。

copyright Kazamaru Yoshihiko 2009




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