みすず書房

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近藤宏一『闇を光に』

ハンセン病を生きて

近藤宏一は1938年、11歳のときに、ハンセン病療養所長島愛生園に入園。太平洋戦争をはさみ、2009年10月5日、83歳で亡くなるまで、その生涯のほとんどを療養所で暮らしました。『闇を光に――ハンセン病を生きて』は、少年時代から晩年まで、著者が園内の機関紙等に発表した随筆、論稿、詩の一部をまとめたもので、70年余におよぶ療養生活や思索の道筋が、感傷のない、すぐれた文章によって綴られています。

著者は戦後、園内の赤痢病棟の介護に従事した際に赤痢に罹患。それが引き金となって病状がおさまっていたハンセン病が悪化し、失明。四肢障害を負い、知覚のほとんどが失われました。

「失明は私を苦しみのどん底に落とし入れた。混濁した闇と向かい合い、命を絶つ方法を模索し、絶望の谷間で悩み続け、自分自身を嫌悪する歳月が続いた」
(『闇を光に』43頁)

そのような苦しみの日々をへて、1953年、盲人の仲間とともに、不自由な体でも演奏が可能なハーモニカのバンド「青い鳥楽団」を結成し、その活動を通して長島愛生園に精神科医だった神谷美恵子との交流が生まれました。『生きがいについて』が生まれるにあたって、近藤たちの楽団が大きな示唆を与えることになります。

「ここに記してあるよろこびが、真の生の充実感から湧きあがっているものであることは、この楽団の練習をこっそりとのぞいてみればわかる。指揮者〔近藤のこと――編集部注〕の、必死と形容するほかないような、烈しく、きびしい指導のもとに全員が力をふりしぼって創り出す協和音。これほどすばらしい生命の光景を筆者はあまりみたことがない」
(神谷美恵子コレクション『生きがいについて』222頁)

神谷美恵子は、1979年10月22日に亡くなりますが、その死の直前、近藤に次のような手紙を書き送っています。
「楽団のメンバーで亡くなられた方のことを私はよくおぼえているつもりです。皆様の全盛期をなつかしく思いおこします。でも人間いつまでも全盛期にいるわけには行かず、らいであろうとなかろうと、その点は全く平等に高齢化し、なくなって行く人がぽつぽつ出てきます。楽団も過去の通りに運営することはむつかしくなっていくことでしょう。それはそれ、それぞれの時期にできることを工夫してやって行ってくださいませ。いずれにしても貴重な歴史を人類の中にきざんで下さったわけで、ほんとうに意味あることだったと思い、ほんの少しでもそれに参加させていただいたことを感謝しております(……)ここまでくるとお互いにほぼ同じ時期に生まれあわせた人間であることがはっきりしてまいりますね。ありがとうございました」
(1979年10月4日付 神谷美恵子から近藤宏一に宛てた手紙)

『闇を光に』は、日本のハンセン病史を知るかっこうの入口になるだけではなく、戦前・戦中・戦後を生きたひとりの人間の記録として貴重な一冊であり、ぜひ多くの方に手にとっていただけたらと考えています。




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