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細澤仁『心的外傷の治療技法』

「(…)みなフロイトをひどく恐れているため、フロイトと私のあいだの論争についても客観的な態度で私に接することができない。私に好意的な態度などなおさらである。(…)私は気遣ってもらわねばならない病人のような扱いを受けている。回復して「気遣い」不要になるまで、私からの干渉は控えねばならない。」
――フェレンツィ『臨床日記』より

フロイト、ユングと深い親交を持ち、国際精神分析協会の発足にも加わり、まさに精神分析の黎明期をその中心人物として生きたハンガリー生まれの分析家シャーンドル・フェレンツィ。彼の『臨床日記』の最後の日付の記述からも察せられるように、彼の晩年はそのキャリアから想像もつかないほど孤独なものであった。
フェレンツィとフロイトの関係に亀裂が入り、彼が精神分析学界で孤立するに至るターニングポイントに、フェレンツィの技法改革の端緒となった「大実験」がある。「大実験」とは、フェレンツィがある女性患者に自分の時間を好きなだけ与えたという症例である。時には深夜にも行われた一日に7、8回の面接、そして休日にもフェレンツィは患者と行動を供にし、その面接技法もいつしか精神分析の基本原則を飛び出していった。「大実験」は治療的には失敗に終わったようであるが、「大実験」により導き出されたフェレンツィの技法はフロイトの批判を受け、フェレンツィは孤立していったのである。

『心的外傷の治療技法』の著者・細澤仁は本書の中で、自身もある患者との面接で、フェレンツィの「大実験」に似た状況に陥った過去があることを告白している。フェレンツィ同様、その治療の結果は成功とは言い難かったようだが、細澤はこうまとめる。「フェレンツィの「大実験」は失敗に運命づけられた臨床技法ではない。フェレンツィの失敗は間違った方法を採ったことではなく、それを十分に推敲しなかったことにある。その失敗を乗り越え、その意義や可能性を展開するのは後の時代の臨床家の仕事であろう」(本書50頁より)。「大実験」のみならず、細澤はフェレンツィに強く同一化していることを認め、彼の臨床理論の萌芽がフェレンツィの著作にあることを本書の中で示している。
精神分析の世界で孤立したフェレンツィの著作は、死後に至るまで発禁状態が続いた。彼の死後50年以上のちのことであったが、その著作が日の目をみなければ、本書もまた生まれなかったであろう。本書によってフェレンツィと細澤仁という二人の精神分析家のバイオグラフィーが交差するとき、古典を読むことと治療技法の確立がいかに深く固いつながりをもつのかが、鮮やかに理解されるだろう。そしてそれは、二人の分析家が一所にとどまらなかったように、精神分析という技法もまたさらなる可能性に満ちたものであることを示している。




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