みすず書房

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H・v・クライスト『こわれがめ』

付・異曲 山下純照訳 〈大人の本棚〉

現代ドイツの作家ダグマール・ロイポルトは、2009年に上梓した書簡体小説『夜の明るさ』で、ハインリッヒ・フォン・クライストと赤軍派の女性テロリスト、ウルリーケの対話を描いている。21世紀の現代に生きる人間が直面する「痛み」に、二世紀前に生きたクライストとかれの生み出した創作世界が、かくも自然に同調する。

安定とか成功といったものとはまったく無縁だった。たび重なる進路変更、失敗と挫折、彷徨……しかし20世紀に入ってから、その名声は高まるいっぽうで、没後200年(2011)にはドイツ国内で大きなシンポジウム、展覧会、戯曲の上演などがおこなわれた。「ドイツの誇り、ハインリッヒ・フォン・クライスト」と谺する声を、本人が聞くことができたら、どう思うことだろう。

ドイツ・ロマン派の興隆期にあって、クライストの書くものは当時の他の文学作品とはまったく異なっていた。小説『チリの地震』に代表されるような、救いや慰めのはいりこむ余地のない、徹底した悲劇。戯曲においても、クライストといえば悲劇が浮かぶことだろう。そんななかで、この『こわれがめ』は一見、異色ともみえる。

笑いを誘うかろやかさ。どの国においても『こわれがめ』はクライスト作品の中で人気の上位を占め、舞台にかかり、多くの観客を惹きつけている。その愉しさを純粋に味わうもよし、はたまた――

本書は、全12場+最終場からなる「こわれがめ」のテクストに、ゲーテの肝いりでおこなわれた初演の不成功を受けて削除を余儀なくされた「異曲(ヴァリアント)」を付す。クライストがこだわりつづけたこの「異曲」こそ、作者が本当に伝えたかったことが書き込まれた、クライストの本領発揮たるところである。

笑いを誘うかろやかな「喜劇」――? 「異曲」に描かれた世界は、本テクストに描かれた世界とは別の次元に存在しているかのようだ。
もし、わたしたちの生きるこの世界がひとつではなく、いくつもの違う次元の世界が同時に存在しているとしたら? そして、それぞれの世界にそれぞれの「わたし」が存在しているとしたら? ハープの弦が、隣り合う絃はきわめて近い音でありながら、互いに不協和な、馴染まぬ音を奏でるように、本テクストと異曲の世界は、そこに登場する人びとは、別の次元に存在する異質なものどうし――重なり合うことはけっしてない。

クライストは、34歳でこの世を去った。
ポツダム郊外のヴァンゼー、秋の日の夕方。癌におかされた人妻ヘンリエッテ・フォーゲルの胸をピストルで撃ち抜き、直後にそのピストルを自らの口にくわえ、引き金を引いた。その午後、ふたりは宿屋からテーブルと椅子を湖畔に出させ、コーヒーとラム酒を飲んでいたという。二人のはしゃいだ笑い声が聞こえてきた、との宿屋の主人の証言がある。フォーゲル夫人の遺書によれば、これは愛人どうしの心中などではない、と。不安、絶望にみちた現世をあとに、彼岸の世界へ早く逝きたいと願うふたりの人間がたまたま出会い、一緒に死んだ――クライストの絶望は、最後はそんなふうに幕をおろしたのだった。


ジャン=ジャック・ル・ヴォー「裁判官あるいは壊された甕」(本書口絵より)


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