みすず書房

フェリックス・ガタリ『リトルネロ』

宇野邦一・松本潤一郎訳

2014.11.26

「このテクスト『リトルネロ』の翻訳は難航した。しばしばフランス語の音韻や語感に導かれたガタリの文の展開を日本語に移し変えることは、ほとんど不可能である。しかもほとんど行ごとに場面が移り、人名や地名が唐突に交代する文章である。人称代名詞が誰を指すかも、しばしば特定しがたい。できるかぎり調べて注をつけるようにしたが、不明なもの、不確定にとどまった場合も多い。これは膨大な「リトルネロ」のコレクションであり、そのあいだに横断性や反響や共振を見いだそうとしたガタリの特異な実験の書でもあった。訳しながら、さらに読解を深めていくと、ガタリのそのようなプロセスとパフォーマンスの〈過程〉そのものが、だんだん実感できるようになってきた。日本語の読者には、まさにテクストの中心にあるそのような〈過程〉をなんとか伝えたいと思うようになった。
読者にまずお薦めしたいのは、はじめからたくさんの注を読みながら、テクストの意味をいちいち考えて読むという読み方ではなく、むしろすばやく読んで、さまざまなリトルネロの森のあいだを彷徨するように読み進むことである。次にはガタリが推敲し、ひとたび完成したこの〈リトルネロ機械〉のメカニズムを、注を追いながらいちいち解明するような読み方も、また他のどんな読み方、分析もありうるだろう」
(「訳者あとがき」より)

そういうわけで訳注が編集作業中に増殖していくことは入稿前から明白だった。巻末注は読みを阻害する行為を読者に強いることになるし、傍注は本文のページ移動を伴うのでやはり避けたいところ。そこで本文をプレーンな状態でフィックスさせておいて、本文下欄に注専用の流し込みフォーマットを設け、古風だが注番号はふらずに下欄のほうで項目を繰り返す方式を採ることにした。
ガタリの伝記的事実や周辺人物の特定にかんしてはフランソワ・ドス『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』(杉村昌昭訳、河出書房新社)やガタリ自身の著作を参照したものの、コンテクストがあってなきの固有名の大半はネット検索に頼らざるをえなかった。はたして地名か人名か。店名か商品名か。人名だとして実在の人物なのか、それとも小説などの作中人物なのか。ポールやピエールはおろか同じ名称の通りや(ことに省略された)地名は複数存在する。当然、いったん同定していたものがまったく見当はずれだったりすることもたびたびだった。そして「不明なもの、不確定にとどまった場合も多い」。
しかしながらこの作業を通して、少なくともガタリが青年時代まで過ごしたパリ郊外北西部やその後のパリ5・6区界隈に加え、「幼年期ブロック」というべきルーヴィエ一帯がひとつの焦点として立体的に浮上してきたことはたしかである。あるいはダブリンの地図を片手にたどる『ユリシーズ』「セイレーン」の章のような読み方もできるのではないか。それは「一生ジョイスにとりつかれていた」というガタリにこそ似つかわしい…?

ところでガタリが結婚または生活をともにした伴侶の実名(ミシュレーヌ、ニコル、アルレット、ジョゼフィーヌ)は、『リトルネロ』には登場しない。かわって頻出するのが正体不明のベルナデットである。そして同じく頻出するカール、ジョフレーという不思議な男性名。
ジョイスの影にプルーストあり――とこのあたりは個人的にガタリの特異なプルースト論『機械状無意識』におけるアルベルチーヌの顔貌性やスワン‐シャルリュス分割に引きよせて解釈しているが、むろんそれはあくまでひとつの解でしかない。訳者あとがきが述べるように「他のどんな読み方、分析もありうるだろう。またこの作品に触発されて、別の『リトルネロ』の試みが新たに登場することさえもあるだろう」。