みすず書房

パトリック・ドゥヴィル『ペスト&コレラ』

辻由美訳

2014.05.26

前作『ドライヴ』が素晴らしかったレフン監督の『神のみぞ許し給う』(邦題『オンリー・ゴッド』は、あんまりだ)をDVDで見ましたが……悪趣味がきわだっていて、見ながらほかのことを考えてしまいました。ライアン・ゴズリング、『ペスト&コレラ』を映画化するなら、イェルサン役は彼しかいない!

この長編には、このごろのフランス文学にときどき目につく、私小説的なチマチマしたところがいっさいありません。19世紀から20世紀前半にかけての時代、ヨーロッパと東アジアを舞台に、細菌学者と冒険家になりたくて、じっさいそうなったアレクサンドル・イェルサンという人物の波乱に満ちた生涯を、まさに映画的な手法で描き切った、まことに面白い小説なのです。

最初のシーンは、パリに迫るドイツ軍から身をかわすようにヴェトナムに帰ってゆくイェルサンが、定宿にしていたリュテシア・ホテル最上階の部屋からエッフェル塔を眺める場面。70代後半の彼のあごひげは真っ白になっています。マルセイユに向かう飛行艇の窓からはるか見下ろす戦地と化したフランスの国土。

普通なら、ここで老イェルサンの心情を語るところでしょうが、話は一気に彼の出生にまつわるエピソードに移ります。スイス・レマン湖をのぞむ小さな町の昆虫学者が心臓発作で即死。その直後に生まれた男の子は父親と同じ名を付けられます。

長じて、独仏バイリンガルのイェルサンは、ベルリンでコッホに学び、パリでパストゥール研究所の設立に加わります。ジフテリアや結核の病原菌を見つけて、そのまま有名な学者になると思いきや、海を見たいと言って、はるばる仏領インドシナまで船旅に出てしまうイェルサン。そして1894年、香港を恐怖の渦に巻き込んだペスト大流行、英国が送り込んだコッホ・グループに先んじて、掘立小屋で単身、病原菌を発見し、世界初の治療までおこなってしまうのです。ところが、まだまだ彼の人生は落ち着かない。

このまま書いていくと切りがないのでやめますが、この小説には特異な性格があります。イェルサンの心理は一言も語られないのです。独身者が母と姉に書き送る手紙の引用もまた、乾いたものです。芸術や文学にぜんぜん関心がないイェルサン。それを逆手にとって、こんな作品を書いてしまう、作者のドゥヴィルには脱帽です。無表情のゴズリングが、たまに見せる(そして魅せる)かすかな笑み。ヴェトナム人から「ドクター・ナム(五・先生)」と慕われたイェルサンも、きっと、そんな人物だったのでしょう。