みすず書房

スピノザはいまもこの世界にともにいるのか。それとも世界とスピノザの間は遠くなり、スピノザは必要とされなくなっているのか。

スピノザ『知性改善論/神、人間とそのさいわいについての短論文』佐藤一郎訳

2018.02.09

(訳者・佐藤一郎による「あとがき」より一部を抜粋いたします。)

「百年の孤独」のガルシア・マルケスは処女作を書く前の二十代の一時期、カリブ海に面したコロンビアの都市バランキージャの通称「犯罪通り」にあった新聞社で記者をしていたという。

「「犯罪通り」と呼ばれる三二番通りの一帯は、カーニバルのような熱狂に包まれていた。
どこにも露天商がひしめく。〔略〕密輸のパソコン、牛の目玉、タマリンドのジュース、マリフアナ。屋台の書店には、スピノザの哲学書「エチカ」の横に「刑法入門」「犯罪社会学」。何でもある。
百万の花びらを、炎天下の生ごみの山にぶちまけたような色彩とにおい。売り声、叫び声、笑い声、歌声、クラクション。〔略〕夜は、殺し、強盗、何が起きても不思議ではない町。」(『朝日新聞』日曜版、1998年12月13日。100人の20世紀 ガルシア・マルケス、「犯罪通り」から文学)

この渾沌はスピノザの「エチカ」と対蹠にあるようでいて、不思議と違和感がない(他の哲学書で似合うものを挙げるとしたらカントの「純粋理性批判」くらいしか思いつかない)。これは印象のようなものかもしれない。しかし次は違う。

「私が九年余りの独居房生活の末に考えついた、万人を幸福にすることのできる唯一の方法と確信する社会制度は、個によって全体が構成されながら、個が互いに矛盾・摩擦・衝突することなく密接に相互作用し、その総和以上の機能、意義、価値などを創造し共有する、健康な肉体、故障しない機械、宇宙の如き絶対的な本質と構造を持ったものです。この絶対的社会において、万人は精神的にも肉体的にも経済的にも豊かに恵まれて、満ち足りた、恒久的な真実の幸福を、有史以来初めて手に入れることができるのです。〔中略〕万人が敵味方、善悪といったように対立したり区別されず、万人が一心同体の如くに団結し、お互いに同情したり同情されたりする必要が全くなくなるように、万人が平等に過不足のない生活をすることであります。」(奥崎謙三『ヤマザキ、天皇を撃て!』三一書房、1972年)

「犯罪通り」と裏表のような、湿った風土のものだが、原一男監督の映画『ゆきゆきて神軍』にその激烈な姿をとどめている奥崎の言葉は、ここを読むかぎりでは、スピノザが乗り移って書いていると言っても大袈裟ではないくらい、その哲学のめざすところと一致している(奥崎は「エチカ」を読んではいないだろうと思う)。

スピノザはいまもこの世界にともにいるのか。それとも世界とスピノザの間は遠くなり、スピノザは必要とされなくなっているのか。

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