みすず書房

「わが師土方定一について書いた文章をあつめて一本に」(酒井忠康「あとがき」)

酒井忠康『芸術の海をゆく人――回想の土方定一』

2016.11.30

(巻末「あとがき」をここでお読みになれます)

あとがき

酒井忠康

これは、わが師土方定一について書いた文章をあつめて一本にしたものである。
わたしの脳裏に去来する土方と因縁をもった人たち――画家や彫刻家、詩人や批評家、あるいは学者や編集者など――との、ある意味で想像の出会いや回想のかたちを借りて気ままに書いた文章である。
そんなわけで、いわゆる評伝とはちがう。どちらかといえば、土方のプロフィールに近い。あるいは人物スケッチと称してもいい。また広範な領域におよんだ仕事にも触れておく必要があったので、著書のなかより数冊を選び、執筆の動機や内容の一端を紹介した。
しかし、これもまた噛みくだいた解説というより、むしろ著書をめぐる人との出会いに誘われた文章になったのではないかと思っている。

本書の内容を以下のように類別した。
I 批評の姿勢・詩人として・北京時代
II 画家・彫刻家たちとの対話
III 著書をめぐる話・編集者の回想・出会いと追想
――というように、大雑把なくくりとなっている。収録した個々の文章も基本的には、それぞれ単独の内容であるが、執筆の時期や発表の紙面を異にしたために重複する箇所が生じ、修正はほどこしたけれども文脈の関係でそのままにしたところがある。敬称についてもできるだけ対象との距離をとるようにはしたが、厳密な統一はしていない。

多くの文章は、ここ十数年のあいだに紀要や雑誌などに掲載したものだが、「追想のわが師」の一篇は、土方が亡くなった直後に出された「歴程」(一九八一年三月)に載せた記憶の断片である。収録にはいささか躊躇したが、ある意味でもっとも近しい体験的回想となっているので(それだけによけいに気恥しいのだが)、やはり収録することにした。

さて、本書のタイトルについて若干ふれておきたい。
「芸術の海をゆく人 回想の土方定一」としたのは、未知の芸術的世界をひらく開拓者精神の持ち主であり、また人生の最期まで仕事に打ち込んだ、その持続的な意志の人を形容するのにふさわしいのではないかと考えて、編集者の八島慎治氏と相談してつけたタイトルである。もともとは今年の二月、わたしが北海道新聞の「私のなかの歴史」欄(全15回)に登場したときに、聞き手の上田貴子さんが励ましの意味をこめてつけてくれた見出し「芸術の海をゆく」によったものである。

土方が亡くなってからすでに36年が経つ。直に知る人も少なくなり、わたしの記憶もあやしくなってきた。そんなわけで事実を確認しながら原稿を書くことになった。特に意識してそうしたというわけではないが、ずいぶん前に土方から言われたことを思い出して、それをヒントにいくつかの文章を書くことになった。
ハーバート・リードの評伝を書け、と土方に勧められて、わたしは暗礁に乗り上げてもがいている最中だった。たまたまリードの「自伝」を読み第一次世界大戦中の行動を調べていて、ひょっとしたらリード(イギリス軍)は、パウル・クレー(ドイツ軍)と激戦地でカチ合っているかもしれない、という話を土方にしたときのことだった。
「二人の組み合わせで書くのは、どうかね」と。結果的には二人の出会いはなかったが、土方の後押しで書いたこの話は「三彩」(1969年8月号)に掲載された。
それを読んだ彫刻家の堀内正和氏に「スレチガイを書いた変なエッセイだね」と冷やかされ、その場が神田にあった秋山画廊の夜の酒席でもあったから「師匠はリッパだが、弟子はオソマツ」などと言われなくて、正直、安堵したものだ。

そんなわけで、本書のなかのいくつかの文章は、「二人の組み合わせ」のことを思い出して、こころみに書いたものである。わたしのこころみが、はたして功を奏したかどうかは、読者の判断に俟つほかない。そもそも――つまり、土方が「二人の組み合わせで」と言ったときに、おそらく念頭にあったのは、トーマス・マンの「ゲーテとトルストイ」(講演)だったのではないかと思うが、いまとなっては確かめようがない。

こうして一本にしてみると、土方との組み合わせに招くべき人が他にもおられるのを知ることになったが、しかし、このあたりが頃合いと考えて中仕切りとすることにした。久しく気になっていた宿題を何とか済ましたという気持ちである。
(…)
本書が、多くの心に深くとどめた人たちへの、わたしからのささやかな献詞とならんことを祈って――。

2016年9月  著者

(著者のご同意を得て転載しています
copyright Sakai Tadayasu 2016)