みすず書房

自己責任論から離脱するための知的基盤をつくる

ヤシャ・モンク『自己責任の時代』 那須耕介・栗村亜寿香訳 [18日刊]

2019.11.13

貧困問題に取り組んでこられた湯浅誠さんと駒崎弘樹さんが、対談でこんなことを言っていた。「子どもの貧困」は自己責任論を最初から乗り越えている。大人の貧困は本人のせいと言われておしまいだが、子どもはそうではない。子どもが貧窮しているのは明らかにその子の責任ではないので、素直に支援しようという話になる――と。親が裕福で子どもだけが貧困に陥ることは普通ありえないので、なぜ「子どもの」貧困と言うのか以前から素朴な疑問を抱いていたが、こうした効果があると知って衝撃を受けた。この社会は、それほどまでに困窮者の救済に厳しい。ならば、大人の貧困は一体どうなってしまうのだろうか。

福祉事務所で生活保護を担当している友人の話では、生活保護費が支給される日になると役所に長い列ができるそうだ。そしてお金を受け取った人に飲み屋の呼び込みが寄ってきて、懐が少し温かくなった客を店に引っ張っていく。税金で昼から飲むとはけしからん、と言われても仕方ない。しかし、それが唯一の生きがいという人が多いという。その友人は、生活保護を受けることになった人の話をいくつもしてくれたが、どれも負のスパイラルに落ち込んでいるように感じた。聞いていて、自己責任論は切り捨てる理由にはなっても、解決の足しになるとは思えなかった。働かずに昼から飲むのはよくないが、たとえば生活保護を打ち切ったとしても、税金が飲み代に消えることがなくなるだけで貧困は残る。狭量な自己責任論が求める正義はそこでおわる。社会をうまく回すことは、そこでは目的ではないし、いろいろ面倒な問題提起をする論敵を黙らせる言葉として「自己責任」は便利に使われてきた。さらには、本来は関係のない文脈にまで、この言葉は侵食しつつあるのかもしれない。

しばらく前に大怪我をしたのだが、仕事に復帰後たまたま訪ねてきた人が、原因がスポーツと聞いて「自己責任ですね」と言った。仕事ではなく趣味に精を出して怪我をしたのは私の責任で、誰か他人のせいにしているわけではないということは、その人もわかっているだろうから、いちいち自己責任だと言う意味がわからなかった。自己責任という言葉が流行っていなければ、おそらく「それは災難でしたね」などと言ったのではないか。言葉とはこんなふうに独り歩きを始める。ただの怪我も自己責任と言われて、「罪悪感を持て、世間に詫びろ」と暗に迫られているような気になる。

一方で、こうした状況への違和感や反感も大きい。しかし自己責任論を乗り越えようとすると、「貧困はその人の責任ではない」という論理に依拠しがちで、すると「いや、それは当人の責任だ」という反論に遭い、責任の所在をめぐる水掛け論になる。これを解消したのが「子どもの貧困」だった。それも有効な方法だったと思う。本書が画期的なのは、責任の所在についての堂々めぐりそのものについて、どこがどうおかしいのかを根本的に解きほぐしてくれたところにある。そういう本はこれまでなかった。自己責任の時代から離脱するための知的基盤づくりを目指した本だけに、少しややこしい分析も含んでいるが、そのぶん今の状況を俯瞰して批判するための手応えを感じられると思う。那須耕介さんによる訳者解説から読み始めるのもよいかもしれない。難解な部分もふくめた本書のエッセンスが、さらっとエッセイを読むようにわかる清々しい文章となっている。