みすず書房

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スタイナー『私の書かなかった本』

伊藤誓・磯山甚一・大島由紀夫訳

インタビューには名人がいる。イラン出身の哲学者ラミン・ジャハンベグローもその一人で、小社から『ある思想家の回想』というアイザィア・バーリンの聞き書きが翻訳されている。バーリンの後に彼が挑んだ相手は、これまた気難しそうなジョージ・スタイナー。1989年にジュネーヴでおこなわれた国際会議で知り合う機会を得たジャハンベグローは、その場でインタビューを承諾させ、数ヶ月後には英国ケンブリッジを訪れて何日にもわたるインタビューを実現してしまった。

ウイーンから両親が移り住んだ、パリの高級住宅街で生まれ育ったスタイナーは、幼い頃のこんな思い出話をしている。

1934年、わたしは5歳でした。パリは嫌な時代を生きていました。クロワ・ド・フー〔火の十字架〕という、今日ならル・ペンの活動団体にどこか比べることもできるような極右組織が、カムロ・デュ・ロア〔王党派行動隊〕とフランコ主義の若者たちを堂々と従えてポンプ通りを上ってきたものです。
口々に「ユダヤ人に死を」と叫んでいました。ポツダム生まれだったので高地ドイツ語を話した家の子守りが、児童公園にいたわたしを探しに走ってきて、あわてて家に連れ帰りました。彼らが歩調に合わせて「レオン・ブルムよりヒトラー」と歌い上げていたことを、今でもわたしは思い出します。
わたしと子守りが家に着くと、母が鎧戸を閉ざしました。やはり急いで帰宅した父はまったく平静でした。
外で何が起こっているのか見たかったわたしは、鎧戸を開けてくれるよう母に頼みました。そこで見たのは、ガラス窓を打ち壊し、スローガンを大声でがなり立てながら通りを進む群衆でした。まさにこのとき、父がわたしのところに来て、いつもの静かな声で言ったのです。「見てごらん、これが歴史というものだよ。」
父のこの言葉を忘れることはないでしょう。即座に意味がわかったわけではありませんが、この言葉を聞くなり、わたしは落ち着きました。そして世界が新たな光のもとに見えたわたしは父に答えました。「わかりました、お父さん、これが歴史ですね。」子供のわたしにとって、この言葉は決定的でした。

なんとも恐るべき子供ではないか。法律実務で財を成したスタイナーの父親は、ユダヤの伝統にのっとって息子が学者になることを望んだ。日常的なドイツ語、フランス語、英語にくわえて、ギリシャ語、ラテン語をこの子に教えている。そして、迫害の時代には身を以て歴史を学ばせたのである。

スタイナーは父の教えにしたがい、あらゆることを学び続けた。そして何一つ忘れずに、文学、哲学、歴史を批評してきた。80歳を目前に、「書きたかったが書けなかった本」についての一冊の書物において、参照されるのもまた、これまでに彼自身のたどった道である。
骨の髄まで批評家なのである。




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