みすず書房

トピックス

A・H・マンセル『色彩の表記』

日髙杏子訳

「ううむ、この赤色を決して言い表せっこない。トルコ風ではなく、とはいえローマ風でもなく、だからといってインド風でもない赤色。……ああ、もうこんがらがってしまったよ」。これは、本書の冒頭に置かれたスティーブンソンの手紙の一文。こんがらがるのはこの手紙を渡された方だろう。
私たちは普段、色を言い表すとき、系統色名(ピンク、茶色、黄緑)か慣用色名(こげ茶色、すみれ色、レモンイエローetc.)を使っている。しかし、そのとき相手と自分の頭のなかで思い浮かべている色が同じであるかは確かめようがない。
産業革命の幕開けにより多種多様な工業製品の生産が始まると、設計者から生産現場へ、色を忠実・精確・簡潔に伝える必要が急務となった。20世紀の始まりに開発された《マンセル表色系》は、色を「色相・明度・彩度」の三属性から測ることで、文化や環境に左右されずに定量的に表記することを可能にしたのである。

だが、開発者アルバート・H・マンセル(1858-1918)が実業家とか発明家だった訳ではない。幼い頃からアウトドア志向で、船の上で何時間も海を眺めて過ごすのが大好きだったマンセルの瞼の裏には、刻々と傾きと光線を変化させる太陽のもと、さまざまな表情をみせる水面の、あの瞬間の色が焼きついていたのである。長じて画家を目指し、古典的な美術教育において優秀な成績を収め、肖像画家として腕を上げながらも、「眼で見る色と絵の具の混色はいつも等しい色にはならない」というジレンマは深さをましていったと想像する。しかし、それは別の見方をするなら「人間の眼は日々何千回もの混色をしている」ということではないか! ということに気づいたときマンセルが膝を叩いたかどうかは分からないが、そのときマンセルは色彩表記の原理にふれたのだ。折しもヨーロッパでは印象派の画家たちが、世界は主観的な色から成ることをキャンバスの上で表現し、人々に世界の認識の真実のひとつを示していた。

画家として絵筆を握りながら、いつしかマンセルは色彩の研究に没頭し始める。「人間の眼の奥ですべての色彩は再現されている」という鍵概念の下、光の反射率の実験や、光のスペクトルの分析を重ねることで見えてきたのは、色彩の世界もまた三次元で捉えられるではないか、というヴィジョンだった。そして「色相・明度・彩度」という座標軸にいきついたのである。

その成果を多くの人に知ってもらいたい、という躍動感あふれる筆致でつづられたのが本書『色彩の表記』だ。美術教師でもあったマンセルは、子供たちにも理解できるようにと手やみかんの構造を使って《マンセル表色系》の考え方をていねいに説明している。正確さと簡潔さを合わせもったこの理論は、色彩表記のスタンダードとしてすみやかに普及していった。さらなる色彩の研究を望んだマンセルは1918年にマンセル・カラー・カンパニーを設立し、実験を重ねるとともに、さまざまな計測器や教材や色彩表現のための道具を開発していった。並行して本書を改訂しつづけ理論を修正・更新していった。

数十頁にまとめられたこの小さな本には、色のしくみを分かる上でポイントとなる重要な観点が書き込まれている。色に興味のある人であれば、色彩表現を発展させるための種をあちこちに見つけることができるだろう。国際規準やJIS規格として世界中で活用されている《マンセル表色系》の理論が根本から分かるだけでなく、色への興味を刺激し、繰り返し読むことを誘う色彩学の源泉のような本だ。




その他のトピックス