みすず書房

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『エドワード・サイード 対話は続く』

バーバ/ミッチェル編 上村忠男ほか訳

〈彼はまた、パワーと力とをいかに明確に区別するべきかを知っていた。このことは、彼の闘争をめぐる主な思考の一つだった。音楽において力はパワーではないことを彼は熟知していた。世界の政治指導者の多くが認知しないのはこの点である。パワーと力との違いは、音楽における音量と緊張度の違いに相当する。ある人が音楽家と話していて、次のように言ったとしよう。「あなたには力強さが足りない」。音楽家の最初の反応は、より大きな音を出すことだ。それこそ、完全にあべこべなのだ。より音量が弱まれば、それだけ緊張度が必要とされるのであり、音量が大きくなればなるほど、音に静かなる力が必要となるのである〉

彼とはもちろんサイードのこと、そして筆者は(おわかりになる方も多いだろうが)、ダニエル・バレンボイムだ。本書に収められた「巨匠(マエストロ)」という表題の追悼文で、バレンボイムは上に書いた以外に、細部へのこだわりと全体への目利き、相互連関性、排除に抗した包摂や統合の原理という小テーマを選びながら、サイードという存在と音楽のあり方を類比的に描いている。
結果として、本書は、バレンボイムにしたがって音楽的メタファーを用いるなら、琴線にふれるハーモニーを奏でるオーケストラのような本になっている。指揮者ならぬ編者であるバーバとミッチェルが「対話」という共通テーマを指示し、調和を求めながら、各パートに自由に演奏させる。二人の指揮者も演奏に加わった17のパート。そこにはチョムスキー、スピヴァク、ハルトゥーニアンなどわれわれにも馴染みのパートもあれば、パレスチナ関係、サバルタン関係、ポストコロニアル関係などの、われわれのあまり知らないパートもある。それらすべてが合わさって、最後を飾るバレンボイムの文章を読み終えると、エドワード・サイードとは誰であったかがくっきりと浮かび上がってくる。見事なオーケストレーションである。

ちなみに、スピヴァクも本書で音楽のメタファーを使っている。「ポストコロニアル学派は、いまだ一群の理論からはっきりと区別されていなかった。わたしは理論を演奏する楽団の女ヴォーカルだ、などとよく言ったものだ。スタンリー・フィッシュ、フレッド・ジェイムスン、エドワード・サイード、ヘイドン・ホワイトといった数人の楽団員が出たり入ったりしたが、わたしはつねにいた」。

たんなる追悼集につきない本書を、ご堪能ください。




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