みすず書房

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矢内原伊作『完本 ジャコメッティ手帖』 II

武田昭彦・菅野洋人・澤田直・李美那 共編[全2巻完結]

「仕事がもはやどうにもこうにも進まなくなったあの日、あのときに私は私の生涯ではじめて1本の線もひけなくなり、自分の画布を前にして何もすることができずに坐っていた。きみのおかげで私はあの地点に達したのであり、私にはあそこに到達することが絶対に必要だったのだ。きみとともに2ヵ月以上も間断なく仕事を続けることができなかったならば、私はとうていあそこまで行くことはできなかっただろう。あの日に、私の仕事のすべてが新たにはじまったのだ。きみの肖像を描くということはもはや問題ではなくなっていた。問題は、何故私がきみの肖像を描くことができないのかを知ることだった」
1959年初頭の手紙(矢内原伊作『ジャコメッティ』所収)でジャコメッティが回想しているのは、矢内原がはじめてモデルとなった1956年秋から冬にかけての出来事である。制作上の抜き差しならぬ危機が「実存的」不可能性となり、実生活をも巻き込んでゆくプロセスは本書第I巻が示すとおりだが、では第II巻でどのようなドラマが待ち受けているのだろうか?

1959年8月3日、矢内原は2年ぶりにオルリー空港に降り立つ。パリを走るバスのなかから認めたアネットの姿。「彼女はぼくのほうに走ってくる、彼女は喜んでいる」。矢内原の眼には、街も人も変わっていない。アルベルトはまだスイスだ。そこでアネットと公園のなかを散歩、サン=ジェルマン=デ=プレに出かけて食事をとり、ホテルに帰って愛しあう。ただジャコメッティとの「冒険」が絵心をもたらしたのだろうか、この年から矢内原の手帖にスケッチが多くみられるようになるのはひとつの変化だろう(ちなみに第II巻にはアネットが手帖に描いた矢内原像、また断定は避けているが、ジャコメッティによるものと思われる街路のデッサンも収録されている)。いまひとつの変化は、この年はじめて出会ったカロリーヌの存在。続く3年のアルベルト、アネット、矢内原の三者関係の変容にかかわる主要ファクターの登場である。そしてなにより外部的要請としてジャコメッティがモニュメント制作(「歩く男」「立っている女」「大きな頭部」)にとりかかっていたことがあげられるだろう。このことが肖像画への極度の集中による負の側面(上記の手紙で語られた絶望の極)をやわらげたといえなくもない。
もちろん、制作上の「危機」はあいかわらずのことだ。しかしながら消去と解体の繰り返しは、いくぶん確信をもって行われているのである。呻吟し、悪態を吐き、咆哮し、叫び、あるいは放心し、方向を見失って破滅に追い込まれながらも、ジャコメッティはこんなふうに語るのだから。「われわれがどこを漂っているのか、まったくわからぬ。真の冒険とはこういうものだ」。あるいは「〈われわれがどこへ行くのかもはやわからぬ。おい! ヤナイハラ〉〈ぼくにもわからない。ぼくを導いているのはあなただ〉〈いや、きみの鼻が私を導いている〉」(フランス語表記は省略)とユーモアを漂わせながら。

1960年からは、新たに胸像制作が始まる。写生による彫刻の試みが肖像画制作と並行して行われるようになるのである。たとえば1960年9月12日の場合は、午後4時から胸像。7時から1時間半の休憩をはさんで肖像画。2時間続けた後に別の肖像画にとりかかり、11時過ぎに絵筆を擱く。そしてその後の深夜のバーで、ジャコメッティのこんな「つぶやき」が―― 「仕事という冒険、コレ以上ノモノハ望メナイ。今日の午後、私はきみの耳の背後に空虚を見た、それは全宇宙が入る深淵だ。スベテノモノガ、地球モ月モ入ツテシマフ、なぜならそれは空虚であり深淵だからだ。1平方センチメートルノ中ニ全宇宙ガアル。これ以上のものを望むことはできない」
ここでは、アンドレ・マルローがセザンヌに見てとったのとはまるで正反対の事態が語られている。それは「描線は使われる、一切の意味を白に付与するという、ただそれだけのために」とジュネが語る「白」、いやむしろマラルメの「虚無」だといっていい。視覚にまつわるあらゆる慣習を「エポケー」し、あらゆる様式を退けつつ、見えるものを見えるがままに描くという超‐現象学的探究の極北に浮かびあがる「空虚」。絵画における、彫刻における「ptyx」の実現こそは……。

以上、ややネタバレ的な紹介に終始したが、全巻の説明としてはいま一度第I巻のトピックス欄をごらんいただきたい。矢内原は最晩年に「ジャコメッティの包括的なモノグラフィに着手」(第I巻・編者解説)していたという。だが、それは実現にいたらなかった。本書はその不在を埋める貴重なドキュメントである。




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