みすず書房

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矢内原伊作『完本 ジャコメッティ手帖』 I

[全2巻] 武田昭彦・菅野洋人・澤田直・李美那 共編

「彼が矢内原の顔(この顔は、おのれを差し出しつつ、おのれに似たものが画布の上に移ることを拒否していたのだとも考えられる、その唯一の同一性を守らなくてはならないかのように)と闘っている間ずっと、私は、けっして間違うことはないがたえず途方に暮れている一人の男の姿に胸を打たれていた。たえずより遠くに、不可能な、出口のない領域の数々に、彼は入り込んでいた。(…)サルトルは私に言った。
サルトル――日本人の仕事をしている頃彼に会ったが、うまく行っていないようだったな。
私――彼はいまでもその話をしている。どうしても納得がいかないんだ。
サルトル――あの頃、彼は本当に絶望していた」(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』鵜飼哲訳、現代企画室1999)

矢内原伊作が遺した「ジャコメッティ資料」――1954年から1961年までのヨーロッパ滞在中の日記帖6冊と手帖21冊、1955年から1961年までの写真を整理したアルバム4冊。そこからジャコメッティにかかわる記述をすべて活字化し、アルバムに関しては巻頭に「写真帖」として、現存するコンタクトシート(ベタ焼き)を原寸大で時系列にしたがって配列して再現。それゆえ本書は、書籍という形態に移し変えるために必要な編集作業はむろんおこなっているものの、矢内原『ジャコメッティ』(宇佐見英治・武田昭彦編、みすず書房1996)の編者あとがきで予告されていた「手帖・日記の全記録」という以上に、「ジャコメッティ資料」そのものの公開となる。
1954年10月よりフランス国立科学研究センター研究員としてフランスに滞在していた矢内原は、55年11月にジャコメッティとの会見を果たし、以後親交を結んだ。帰国直前の56年10月より2ヵ月半モデルをつとめたが、その後もモデルとして乞われ、すべてジャコメッティによる渡航費、滞在費負担で57年、59年、60年、61年の毎夏をパリで過ごした。その間、少なくともモデルをつとめていた230日間は、寝る間とわずかな例外をのぞいて矢内原はジャコメッティと行動をともにしていた。そして「見ルコトガ、ソノママ生キルコトデアルホドニ」手帖を「常ニ携ヘ、一切ヲ記録」したのである。ジャコメッティの言動、制作状況や実生活、交友関係をつぶさに伝えるドキュメンタリーとして、これ以上の書はかつてなかったし、今後も出現することはないだろう。

編者の武田昭彦氏が指摘しているように、いくつかの理由から廃版を余儀なくされた矢内原『ジャコメッティとともに』(筑摩書房1969)には、時系列を意図的にたがえる操作が少なからず加えられていた。また今回新たに判明したことだが、アルバムにおいても矢内原自身の手によって1955年に撮影されたものが1956年の写真として整理されていた(この撮影年度の訂正により、フランスのアルベルト&アネット・ジャコメッティ財団とのあいだでちょっとした論争が起こり、刊行遅延の原因のひとつとなった)。
記録としての性格上、時系列の誤りを正し事実をあるがままに提示する本書は、『ジャコメッティとともに』の廃版以降隠されてきた事実をも明らかにする。ジャコメッティの妻アネットと矢内原の関係である。なぜ矢内原がモデルでなければならないのかをも含め、ここで解釈の誘惑に駆られずにはいられないのだが、それは芸術制作上のドラマと実生活上のドラマの脚色なき展開をたどられる読者ひとりひとりに委ねたい。いずれにせよ「全身芸術家」ジャコメッティの存在、その魅力はいや増すばかりである。




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