みすず書房

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V・ヴァイツゼカー『パトゾフィー』

木村敏訳

生命と環境の相互関係をパトスのうちに求め、個人の病理から社会の臨床へいたる。近代のあらゆる二元論を超克しようとする壮大な医学的人間学。名著『ゲシュタルトクライス』をあらわしたヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼカーのライフワークが、木村敏の翻訳でついに刊行となりました。

ロゴスではなくパトス


〈人間と世界を司っているのは、ロゴス(論理)ではなくパトス(情念=反論理)である〉

本書のテーゼをひとことで言いあらわせばこうなるだろう。パトスが司る領域は、個体の心身にかぎらない。政治、経済、宗教、法など、人間的事象全般にそれはあまねく行きわたっている。人間的事象全般の臨床を試みるのが、〈自然科学的医学〉に対置されるところの〈医学的人間学〉である。
冒頭のテーゼは、本書の前提でもあり帰結でもある。人間の営みのさまざまな局面(病気もそのひとつ)のいちいちに、ヴァイツゼカーは隠れたパトスの働きを見いだしていく。そこに弁証法的統一はない。パトスの働き自体、「普通ではない、逆説的な、科学的に受け入れにくいもの」であり、「通常の論証では絶対に証明できない」ものである。全57章、本文で550ページにもおよぶ本書の考察を、終盤の結論でまとめることはできない。せめて、わたしたちの常識=臆見を揺るがすいくつかの寸言を引くことで、本書のいわば“途方もなさ”を、少しでも感じとっていただけたらと思う。

「高い見地から見れば、すべての悪意ある敵愾心は主観的でしかないということになるだろう。しかし逆に低い見地から見れば、すべての客観(もの)は敵であるということにもなるだろう」(〔二〕客観の悪意)

「器官や身体という物質は妄想的にふるまう。非妄想的なふるまいなどは、けっしてしない」(〔三〕物質の妄想)

「他者を事物として扱うことによって、われわれ自身も事物となっている。そしてそれが自己破壊として作用する」(〔八〕物の不実)

「どんな病気になるにせよ、病気はすべて無意識の罪を含んでいるし、すべての病気はまずもって無意識が嘘をつくことのうえに成立している」(〔九〕生命は嘘をつく)

「ノイローゼ[神経症]、ビオーゼ[生体症]、スクレローゼ[硬化症]の三つをまとめて考えるということは、すべての場合に同じひとつのエスという領域に属していて自我と対立している何かを、そこで統合するということである」(〔一九〕ノイローゼ、ビオーゼ、スクレローゼ)

「真理への保留はどうみてもそれ自身、真理から、つまり誠実さからくるものらしい。誠実であることによって真理から身を引くというのは、人間にとって致命的な状況である」(〔二三〕ニュアンス)

「歴史的な過程においてもっとも強くはたらくのは、生きられなかった生、つまり実現はされたけれども不可能と判断された生だということになる。(…)歴史というものが実際にいま述べたようなものであるのなら、物理学の世界像は間違いだということになる」(〔二五〕ロゴファニーとエイドロギー)

「誰かが遺伝疾患とか外傷とか、あるいはたまたま感染疾患に罹っているとする。その場合、発病に先立つ何かが作用を及ぼしたのではなく、ただひたすら来るべき未来からしか理解できないような何かが起こっているのだということ、そんなことが受け入れられるだろうか。しかし、実際にはそのとおりなのである」(〔二七〕生活史法)

「わたしのごく身近な人たちがわたしを殺し、わたしがわたしのごく身近な人たちを殺す。(…)死ぬということ、つまりは生きるということが、そのまま殺すということであるのなら、死は、それ自身あがないである」(〔三一〕死)

「内在的な超越がオーガズムと子どもということのうちに実現されていて、この二つはともに不可能事の実現として、〈奇跡〉であり〈恩寵〉なのである」(〔四〇〕性/セクシュアリティ)




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