みすず書房

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宮田昇『敗戦三十三回忌』

予科練の過去を歩く

「予科練」とは何か。

言葉としては、聞いたことがあるが、じつは知らない、という人が、今では大半かもしれない。ましてや「予科練」経験者が、「学徒出陣」組にたいして、複雑な思いを持っていた、といわれても、わかりにくいだろう。

第二次大戦後半の1943年、戦況がますます不利になると、日本は陸海軍とも、膨大な戦死者を補うために、学校の卒業生ばかりでなく、在校生の徴集に踏みきった。

「学徒出陣」組(ベストセラー『きけ わだつみのこえ』以来、有名になった)は、下級将校の不足を補うために、当時の大学、高校、専門学校から、文化系の学生が徴集されたもの。理工系と教員養成系は(当初は)除かれた。

一方、「予科練」(飛行予科練習生制度)は、海軍の制度で、戦前からあり、航空機の搭乗員を養成した。年齢は15歳から20歳。著者はその第14期生。12期が3000名、13期が2万8000名、14‐16期は、半年ごとに徴集されて計10万名以上にのぼった。最終的には全国19か所に「予科練航空隊」がつくられたという。

1943年、さらに応募資格の年齢が下げられる。それまでは、当時の中学4年1学期修了程度だったのが、3年修了程度になる。14歳の中学生まで、含まれた可能性がある。

当時は、小学校から中学校に進学する生徒は、クラスのほぼ4人に1人で、彼らはエリートだった。しかし、「学徒出陣」組と「予科練」をくらべれば、当然前者のほうが「エリート」だろう(しかも、終戦時に「見習士官」だった学徒兵は、戦後、除隊すると、みな「少尉」に昇格)。

こうして、軍隊の階級制度のなかでは、学徒出陣組の見習士官(そして、有事に召集される予備学生も)が、特攻要員を予科練から選び出す任にあたって生殺与奪の権をにぎり、予科練は、彼らの下着を洗わせられる立場にあった。

敗戦も間近になると、予科練も、そしてそのすぐ上の課程の飛練(飛行練習生)も、「飛行練習」どころか、飛行機はすでに残っていない。そこで著者たちは、飛行場を造成する突貫工事に駆り出され、「どかれん」となる。「国のため、家族のため」に戦うはずだった、熱い思いとプライドが、最後の一片まで砕かれる事態だった。

戦後、学徒出陣組は制度的に優遇され、復学が容易だった。しかし予科練帰りはそれが困難で、結局、学業を放棄するものも多かったようだ。自然の成り行きとして、生活が荒れるものも出てきて、彼らは「予科練くずれ」とさえいわれ、「予科練」のイメージを複雑にした。

著者は戦後、学徒出陣組が自分の出自を名乗る場面には何回も遭遇しているが、「予科練帰りは、みずから名乗らなかった、数からいって圧倒的に多かったはずなのに」と述懐する。

「予科練」の体験とその戦後は、人によって千差万別のはずで、一概にはいえないだろう。「予科練かく戦えり」という誇らしい思い出を、子供や孫に伝えられた人たちもたくさんいるだろう。『敗戦三十三回忌』は、ひとりの体験者の、過去との対話であり、歴史の洞察である。




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